生老病死を支える―地域ケアの新しい試み
2006年2月26日 読書
著者は、御年80歳を迎える北海道の寒村の開業医であり、40年以上地域医療に貢献してこられた方である。わしは老人の言うことはおおむね尊重する人間であり、ましてやこのような地道な活動をされてきた翁の書かれた文章には頭をたれて肯くのみである。たとえ、内容の多くが自分史だったりしても、文章のあちこちから教養の滲み出ているよい文章だなとしか感じられないのでちゃんと感想も書けないかもしれない。
といいつつ書くが、本書において老いを生きること、死をいかに迎えるかということに関して示唆されるところは大きい。人となりや生活状況までをしっているかかりつけの家庭医がいて、仮に病気で入院したとしても、病院と家庭医が連携をとってくれ、また病室に家庭医自身が診察に来ていろいろな話を聞いてくれる。こういった病院の開放型共同利用の取り組みを著者はおこない、成果を挙げてきている。本当の患者本位の医療とはなにか、継続性、一貫性のある医療についていろいろと考えさせられました。
といいつつ書くが、本書において老いを生きること、死をいかに迎えるかということに関して示唆されるところは大きい。人となりや生活状況までをしっているかかりつけの家庭医がいて、仮に病気で入院したとしても、病院と家庭医が連携をとってくれ、また病室に家庭医自身が診察に来ていろいろな話を聞いてくれる。こういった病院の開放型共同利用の取り組みを著者はおこない、成果を挙げてきている。本当の患者本位の医療とはなにか、継続性、一貫性のある医療についていろいろと考えさせられました。
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「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス
2006年2月25日 読書
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夜回り先生 2 (2)
2006年2月24日 読書
せっかくの外回りで、昼休みもしっかり取れるのに読む本を忘れてきてしまった。本屋に飛び込みわたわたと物色してると、夜回り先生の2巻を発見、買って読む。
一巻に続き、水谷修と土田世紀のコラボレーションは素晴らしい、読ませます。でも、正直なところこのまま巻を重ねていくことに対して一抹の不安を感じているのも事実である。
その不安というのは、水谷氏のメッセージが、単なる感動のお話として消費されてしまいだしてるのではないかという感覚に根ざすものである。しかし、だからといって彼のメッセージをどう受け止めればいいのかわしがわかっているわけではない。わしは、彼のメッセージに対してひたすら戸惑い立ち尽くすのみである。
あくまでわしの感覚としてであるが、このコラボレーションは3巻ぐらいで終わらせたほうがいいのではないかと思う。このまま巻を重ねることは「夜回り先生」というカリカチャライズされたヒーロー像を作り出していくだけで、本当に届けなければならないものはどんどん置き去りにされていくようなそんな気がするのだ。
一巻に続き、水谷修と土田世紀のコラボレーションは素晴らしい、読ませます。でも、正直なところこのまま巻を重ねていくことに対して一抹の不安を感じているのも事実である。
その不安というのは、水谷氏のメッセージが、単なる感動のお話として消費されてしまいだしてるのではないかという感覚に根ざすものである。しかし、だからといって彼のメッセージをどう受け止めればいいのかわしがわかっているわけではない。わしは、彼のメッセージに対してひたすら戸惑い立ち尽くすのみである。
あくまでわしの感覚としてであるが、このコラボレーションは3巻ぐらいで終わらせたほうがいいのではないかと思う。このまま巻を重ねることは「夜回り先生」というカリカチャライズされたヒーロー像を作り出していくだけで、本当に届けなければならないものはどんどん置き去りにされていくようなそんな気がするのだ。
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これはもしかしてマニア垂涎の書!?
メイド萌えの原点ともいえる、柴田昌弘のマンガでありますよ。A4版という巨大サイズに半分以上がカラーという画を楽しむにはもってこいの内容の上に、なんといってもエロい(笑)、子供がいるご家庭には置いておけませんな。というわけで、我が家にも置けないので速やかにマニア女子に保管を頼むことにする。
いや、でもただのエロかと思いきやちゃんとストーリーになってて、柴田昌弘の力量を感じさせてもらいました。『紅い牙ブルーソネット』とか読み返したくなりますな。
メイド萌えの原点ともいえる、柴田昌弘のマンガでありますよ。A4版という巨大サイズに半分以上がカラーという画を楽しむにはもってこいの内容の上に、なんといってもエロい(笑)、子供がいるご家庭には置いておけませんな。というわけで、我が家にも置けないので速やかにマニア女子に保管を頼むことにする。
いや、でもただのエロかと思いきやちゃんとストーリーになってて、柴田昌弘の力量を感じさせてもらいました。『紅い牙ブルーソネット』とか読み返したくなりますな。
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姜尚中センセイの新刊は、「アメリカ」「暴力」「主権」「憲法」「戦後民主主義」「歴史認識」「東北アジア」の七つのキーワードに解説を加えた政治学入門。中身は160ページ程度で、文章もやさしく、一章が短いのでストレスなくすらすら読める。
特に文句を付けるところもなく、素直に納得して読めました。わし的には「憲法」の章がお勧め。あとがきもよい、『「干物」の知』を求めて大学にいきたくなります。
最近、こういった系統の本をよく読むようになったためか、頭のなかでいろんな本の内容がリンクしだしてきたな。お、これは古矢旬の本にも書いてたなとか、ここは内田樹とおんなじこと言ってるなとか、いろいろ(脳内に)貯まってきたんですかね。
特に文句を付けるところもなく、素直に納得して読めました。わし的には「憲法」の章がお勧め。あとがきもよい、『「干物」の知』を求めて大学にいきたくなります。
最近、こういった系統の本をよく読むようになったためか、頭のなかでいろんな本の内容がリンクしだしてきたな。お、これは古矢旬の本にも書いてたなとか、ここは内田樹とおんなじこと言ってるなとか、いろいろ(脳内に)貯まってきたんですかね。
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ISBN:4166604929 新書 ?山 文彦 文藝春秋 2006/02/20 ¥798
仕事帰りに立ち読み、読了。
姜尚中の政治学入門 姜尚中 集英社新書
社会の喪失 杉田敦 市村弘正 中公新書
生老病死を支える 方波見康雄 岩波新書
3冊購入
仕事帰りに立ち読み、読了。
姜尚中の政治学入門 姜尚中 集英社新書
社会の喪失 杉田敦 市村弘正 中公新書
生老病死を支える 方波見康雄 岩波新書
3冊購入
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〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの…
2006年2月16日 読書
8人の映画監督とその作品にまつわる種々雑多な物語。読みやすい多くのエピソードが、それぞれの監督の人間性に光をあてていく。とても面白い。
●デヴィッド・クローネンバーグ 『ビデオドローム』
●ジョー・ダンテ 『グレムリン』
●ジェームズ・キャメロン 『ターミネーター』
●テリー・ギリアム 『未来世紀ブラジル』
●オリヴァー・ストーン 『プラトーン』
●デヴィッド・リンチ 『ブルーベルベット』
●ポール・ヴァーホーヴェン 『ロボコップ』
●リドリー・スコット 『ブレードランナー』
観たことのある作品では新しい気付きが得られ、観たことのない映画はきっと観たくなる、そんな映画本でありました。
●デヴィッド・クローネンバーグ 『ビデオドローム』
●ジョー・ダンテ 『グレムリン』
●ジェームズ・キャメロン 『ターミネーター』
●テリー・ギリアム 『未来世紀ブラジル』
●オリヴァー・ストーン 『プラトーン』
●デヴィッド・リンチ 『ブルーベルベット』
●ポール・ヴァーホーヴェン 『ロボコップ』
●リドリー・スコット 『ブレードランナー』
観たことのある作品では新しい気付きが得られ、観たことのない映画はきっと観たくなる、そんな映画本でありました。
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psiko 創刊3号
2006年2月14日 読書
なんだか毎月買ってるな。
出版社としてかなり力はいってるなと感じる。執筆人も豪華だし、読みどころも満載。しかし、ターゲットは20〜30代女性なんだと思うがそのくらいの層ってファッション以外でこんなに読むところの多い雑誌買うかな?どこまで続くのかちょいと心配。
出版社としてかなり力はいってるなと感じる。執筆人も豪華だし、読みどころも満載。しかし、ターゲットは20〜30代女性なんだと思うがそのくらいの層ってファッション以外でこんなに読むところの多い雑誌買うかな?どこまで続くのかちょいと心配。
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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
2006年2月8日 読書
面白い!全ブロガー必読の書
わしは、パソコン通信から始まりインターネットも普及初期からやっていたが、そのなかで一番衝撃的だった出来事というのは実はGoogleの登場である。当時、さるコミュニティの掲示板で下手な論争を繰り返していたわしは、自分の意見の根拠やデーターなどの裏をとるためにひたすら検索エンジンを使い倒していた。人の手で分類されていた当時のyahooはまったく役に立たず、infoseekやexciteといった機械式の検索エンジンでひたすらいろいろな文字の組み合わせをためし、役に立ちそうなサイトを一覧からほぼ勘で探し出すという行為を繰り返していたのだが、Googleの日本版がでて初めて使用したときは本当に驚いた、まさにピンポイントで欲しい情報がでてくるのだ、これは他のヤツには知られたくないよなと思ったものだ。
余談が長くなったが、そのGoogle革命について本書ではより本質的な部分について述べられ、そしてさらにGoogleが今後なにをしようとしているのか、なんだかわくわくするような内容が展開される。本書は、いままでとまったく質の違う変革が起こりつつあることをGoogleのほかにもアマゾンやウィキペディアの例を挙げながら分かりやすく教えてくれる。
しかし、本当にわくわくする話はここからなのである。こういった変革によって何が起こり変わってくるのか、これはもしかしたら小泉構造改革よりももっとわれわれの社会を構造改革してしまうかもしれない。
例えばブログである。ネット環境の整備によりわずかな費用で自己表現ができるようになり、ブログ人口はどんどん増えていっている、母体が大きくなるにつれ本当に面白いブログの数も増えていっているだろう。しかし、今はブログ界は玉石混合、よほど暇でもない限り面白いブログを探し続けるなんて作業は難しい。ここで、Google革命と同様のブレークスルーを経て「自動秩序形成システム」というものが出来上がれば、リアルタイムに受け手の嗜好に合わせて玉石の玉だけがふるいわけられ届けられるのだ。
それは、単に受け手として有用な情報が届けられるという意味ではより便利な社会というだけである。しかし、送り手の側から考えるとどうだろう。情報の発信者にその情報の価値に見合った対価が届けられるようになり、その情報価値の審査システムが納得のいくものであったら・・・、少なくとも今現在ものを書いて生計を立てている人々は心穏やかではないだろう。何千万の人々が自己表現をはじめ、そこから価値のあるものだけが選ばれていくという究極の競争はどういったものを生み出すのだろう?そして、これは単純な弱肉強食ではなく、マイナーな趣味嗜好のものでいままでは埋もれるしかなかったものに光を当てるという効果も期待できるのである。
わしは、パソコン通信から始まりインターネットも普及初期からやっていたが、そのなかで一番衝撃的だった出来事というのは実はGoogleの登場である。当時、さるコミュニティの掲示板で下手な論争を繰り返していたわしは、自分の意見の根拠やデーターなどの裏をとるためにひたすら検索エンジンを使い倒していた。人の手で分類されていた当時のyahooはまったく役に立たず、infoseekやexciteといった機械式の検索エンジンでひたすらいろいろな文字の組み合わせをためし、役に立ちそうなサイトを一覧からほぼ勘で探し出すという行為を繰り返していたのだが、Googleの日本版がでて初めて使用したときは本当に驚いた、まさにピンポイントで欲しい情報がでてくるのだ、これは他のヤツには知られたくないよなと思ったものだ。
余談が長くなったが、そのGoogle革命について本書ではより本質的な部分について述べられ、そしてさらにGoogleが今後なにをしようとしているのか、なんだかわくわくするような内容が展開される。本書は、いままでとまったく質の違う変革が起こりつつあることをGoogleのほかにもアマゾンやウィキペディアの例を挙げながら分かりやすく教えてくれる。
しかし、本当にわくわくする話はここからなのである。こういった変革によって何が起こり変わってくるのか、これはもしかしたら小泉構造改革よりももっとわれわれの社会を構造改革してしまうかもしれない。
例えばブログである。ネット環境の整備によりわずかな費用で自己表現ができるようになり、ブログ人口はどんどん増えていっている、母体が大きくなるにつれ本当に面白いブログの数も増えていっているだろう。しかし、今はブログ界は玉石混合、よほど暇でもない限り面白いブログを探し続けるなんて作業は難しい。ここで、Google革命と同様のブレークスルーを経て「自動秩序形成システム」というものが出来上がれば、リアルタイムに受け手の嗜好に合わせて玉石の玉だけがふるいわけられ届けられるのだ。
それは、単に受け手として有用な情報が届けられるという意味ではより便利な社会というだけである。しかし、送り手の側から考えるとどうだろう。情報の発信者にその情報の価値に見合った対価が届けられるようになり、その情報価値の審査システムが納得のいくものであったら・・・、少なくとも今現在ものを書いて生計を立てている人々は心穏やかではないだろう。何千万の人々が自己表現をはじめ、そこから価値のあるものだけが選ばれていくという究極の競争はどういったものを生み出すのだろう?そして、これは単純な弱肉強食ではなく、マイナーな趣味嗜好のものでいままでは埋もれるしかなかったものに光を当てるという効果も期待できるのである。
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『貧困の克服』に続く集英社新書のアマルティア・セン小論集。わしは、アマルティア・セン博士を敬愛しているので、きちんとしたレビューは出来ません(感情が入るので)。とりあえずいえるのは、文章が易しいので読みやすい、しかし、そのまま勢いよく読んでしまうと読み落とすところが多いのではないかということだ。易しい文章なのによく分からなくなるところがわしには結構あった。
博士の民主主義に対する絶対的な信頼、そしてそのためにまずは教育をと訴える姿勢はまったく揺るぎない。いや、ほんとかっこいいです。
博士の民主主義に対する絶対的な信頼、そしてそのためにまずは教育をと訴える姿勢はまったく揺るぎない。いや、ほんとかっこいいです。
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音楽誌が書かないJポップ批評 41 (41)
2006年2月4日 読書
ブルーハーツ/ハイロウズ ヒロトとマーシーの20年
音楽のムック本には興味がないんだが、彼らの名前を見てそういやハイロウズも解散したんだよなと手にとって読んでみた。こんなわしも20年前はブルーハーツなんかしっかり聞いてたんだよな。あの歌詞は衝撃的だったもんな、俺には絶対に書けない歌詞だと思ったよ。彼らのフォロワーバンドはそれこそ雨後のタケノコのごとく出てきたが、かれらのセンスを継ぐものはほんとに少なかったな。
まあ、わしも3rdアルバムぐらいまで聞いて、あとはチェックのみだったのでまったくたいしたファンでもないんだが、彼らがいなくなると少し寂しいな。なにしろブルーハーツが世にでてから、わしの名前が突然かっこいいといわれるようになったのだ、ありがとう>甲本君。
音楽のムック本には興味がないんだが、彼らの名前を見てそういやハイロウズも解散したんだよなと手にとって読んでみた。こんなわしも20年前はブルーハーツなんかしっかり聞いてたんだよな。あの歌詞は衝撃的だったもんな、俺には絶対に書けない歌詞だと思ったよ。彼らのフォロワーバンドはそれこそ雨後のタケノコのごとく出てきたが、かれらのセンスを継ぐものはほんとに少なかったな。
まあ、わしも3rdアルバムぐらいまで聞いて、あとはチェックのみだったのでまったくたいしたファンでもないんだが、彼らがいなくなると少し寂しいな。なにしろブルーハーツが世にでてから、わしの名前が突然かっこいいといわれるようになったのだ、ありがとう>甲本君。
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中国が「反日」を捨てる日
2006年2月2日 読書
信頼の置ける中国ウォッチャー清水美和(男)
前に読んだ『中国はなぜ「反日」になったか』が、非常に分かりやすく目から鱗がぽろぽろ落ちる内容であったので、その続編となる本書(出版社は違うが)も当然即読み。
前著が国交回復からの日中の動きを詳細に追っていたのに対し、本書はさらに直近の胡錦濤政権と小泉政権について細かくレポートしている。本書の好感の持てる点は、まず根拠の薄弱な先入観や好悪の感情を廃し、公式報道、非公式報道ともに出所をはっきりさせ、その上でどう考えられるかを書いていることである。
中国政府はわれわれが思っているような、ひとつの顔を持つ一枚岩の政権などではない。もともと親日的な胡錦濤政権が、いろいろなサインを日本側に送っているにもかかわらず、小泉首相の靖国参拝およびそれをめぐる発言によっていかに国内での政権基盤を危うくしているか、日本は日中が友好的な関係を築く最高のチャンスがあったのにそれをフイにしてしまった。そういったなか育まれてしまった中国大衆的民族主義の大きなうねりの中で、強権的な共産党本部といえどもうかつに親日的な発言が出来ない雰囲気ができあがってきてしまっている。13億の国民をコントロールすることがいかに難しいことであるか、その胡錦濤政権の悲痛な叫びに対し日本はもっと答えてやるべきではないのか。それこそまさに日本の将来的な国益に貢献すると思うのだが。
ともあれ、本書は日中問題を考える上で非常に参考になると思われるので、皆様漏れなく読まれたし。
前に読んだ『中国はなぜ「反日」になったか』が、非常に分かりやすく目から鱗がぽろぽろ落ちる内容であったので、その続編となる本書(出版社は違うが)も当然即読み。
前著が国交回復からの日中の動きを詳細に追っていたのに対し、本書はさらに直近の胡錦濤政権と小泉政権について細かくレポートしている。本書の好感の持てる点は、まず根拠の薄弱な先入観や好悪の感情を廃し、公式報道、非公式報道ともに出所をはっきりさせ、その上でどう考えられるかを書いていることである。
中国政府はわれわれが思っているような、ひとつの顔を持つ一枚岩の政権などではない。もともと親日的な胡錦濤政権が、いろいろなサインを日本側に送っているにもかかわらず、小泉首相の靖国参拝およびそれをめぐる発言によっていかに国内での政権基盤を危うくしているか、日本は日中が友好的な関係を築く最高のチャンスがあったのにそれをフイにしてしまった。そういったなか育まれてしまった中国大衆的民族主義の大きなうねりの中で、強権的な共産党本部といえどもうかつに親日的な発言が出来ない雰囲気ができあがってきてしまっている。13億の国民をコントロールすることがいかに難しいことであるか、その胡錦濤政権の悲痛な叫びに対し日本はもっと答えてやるべきではないのか。それこそまさに日本の将来的な国益に貢献すると思うのだが。
ともあれ、本書は日中問題を考える上で非常に参考になると思われるので、皆様漏れなく読まれたし。
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『ホラーハウス社会』藤井誠二の解説について考える
2006年1月31日 読書 コメント (1)
不思議な解説である。藤井誠二氏は少年犯罪関連の著作の多いジャーナリストであるが、ここまで肝心の解説の対象となる著者(芹沢一也)や著作(ホラーハウス社会)に触れずに自分の持論を述べてしまうってのも珍しいな。著者はともかく編集者がよくオッケーしたよなと思う。
まあそれは置くとして、その解説の内容が、わしの問題意識と非常にリンクしつつわし自身を告発しているように思えて考えるところが多かった。
彼の主張のあらましはこうである。
正直に言って、わしはここで非難されている「犯罪被害者の癒しは加害者との交流の中で生まれる」と考える者である。それは、犯罪被害者について今まで考えてきた結果なのであるが、もちろん赦さなくてはいけないとかそういうものではない。被害者慰留のためには、何が起こったのかを知るためにできる限りの情報が与えられたり、興味本位で見られなかったり、生活上の援助が得られたりすることが必要であると思うが、それとともに加害者自身の口から事件について聞けたり、被害者の自分達が日々どういう思いで過ごしているかを加害者自身に話せたり、そして、できうれば加害者の悔悛の情を示してもらう、そういうこともまた必要であると思うのだ。しかし、まず、加害者と交流を持つことは今までは叶わないことだったということを考えなければならない。加害者自身の口から事件について聞きたい、そういう思いを持つ被害者の努力で、交流が少しずつ実現できるようになりそして「赦す被害者」という存在が現われだしたのである。
藤井氏は「赦し」の圧力が被害者にかかるようになったというが、わしにはまだ「赦してはいけない」圧力のほうが被害者にかかっているように思える。被害者が「どうしたら加害者を赦しますか?」とインタビューで聞かれるのは、「赦せ」という圧力ではなく、「死んだものは帰ってこない、どんなことがあっても赦せません」という答えを期待しているからであろう。たしかに藤井氏の言うような圧力があるのであれば、できる限りそれを感じないように配慮する必要はあるだろう、しかし「加害者は絶対に赦せません、何とか極刑にするように努力します」という検察側の人間だっている、そちらにも目を向けないと被害者の心の安寧は図れないのではないだろうか。
そもそも、メディアが欲しているのは感情のベクトルの大きさであって、その方向ではないと思う。被害者が赦そうが赦さなかろうが、カタルシスを得られる物語にできればそれでいいのだ。根本的な問題はその物語を欲している社会のほうにこそあるのではないか、藤井氏のいう「赦す被害者」の物語以前に、カタルシスを得るための物語化がなされるそういった状況を打破する試みこそが必要なのではないかと思う。
まあそれは置くとして、その解説の内容が、わしの問題意識と非常にリンクしつつわし自身を告発しているように思えて考えるところが多かった。
彼の主張のあらましはこうである。
少年犯罪に対し、少年を理解しようという立場から異常者として拒絶するという立場に社会が転換を果たした背後には、それまで見捨てられ続けてきた犯罪被害者の実態に光が当てられだしたということがある。ここで、少年犯罪にもはや(社会の歪みによって不幸な境遇におかれた少年が犯罪に走ってしまい、立ち直るという)物語を求められなくなった社会は、こんどは犯罪被害者にたいし物語化を進めているように思われる。つまり、理不尽な暴力によって人生を奪われ、地獄に突き落とされた人々に同情を寄せることによって、カタルシスを得る社会の出現である。
それにとどまらず今度は、犯罪被害者を「赦す被害者」「赦さない被害者」に選別してしまう物語が出来つつある。つまり、犯罪被害に遭い、家族を殺され、人生を狂わされる。しかし、いつかは加害者と交わり、「赦す」という「赦す被害者」のストーリーである。これは「赦さない被害者」をあたかも悪役のように仕立て上げるもので、犯罪被害者救済の法整備がまだ不完全な日本で、犯罪者を憎み続ける被害者が多いということ、また加害者の社会復帰に恐怖を覚えるという遺族の存在を忘れさせてしまうという危険な状況を招きかねない。被害者遺族にとっての最終的な救済や癒しとは、加害者との交流の中で「赦す」という状態に達することであるとする一部の人権派の人々は、問題の一部だけを見て全体が見られていない。
正直に言って、わしはここで非難されている「犯罪被害者の癒しは加害者との交流の中で生まれる」と考える者である。それは、犯罪被害者について今まで考えてきた結果なのであるが、もちろん赦さなくてはいけないとかそういうものではない。被害者慰留のためには、何が起こったのかを知るためにできる限りの情報が与えられたり、興味本位で見られなかったり、生活上の援助が得られたりすることが必要であると思うが、それとともに加害者自身の口から事件について聞けたり、被害者の自分達が日々どういう思いで過ごしているかを加害者自身に話せたり、そして、できうれば加害者の悔悛の情を示してもらう、そういうこともまた必要であると思うのだ。しかし、まず、加害者と交流を持つことは今までは叶わないことだったということを考えなければならない。加害者自身の口から事件について聞きたい、そういう思いを持つ被害者の努力で、交流が少しずつ実現できるようになりそして「赦す被害者」という存在が現われだしたのである。
藤井氏は「赦し」の圧力が被害者にかかるようになったというが、わしにはまだ「赦してはいけない」圧力のほうが被害者にかかっているように思える。被害者が「どうしたら加害者を赦しますか?」とインタビューで聞かれるのは、「赦せ」という圧力ではなく、「死んだものは帰ってこない、どんなことがあっても赦せません」という答えを期待しているからであろう。たしかに藤井氏の言うような圧力があるのであれば、できる限りそれを感じないように配慮する必要はあるだろう、しかし「加害者は絶対に赦せません、何とか極刑にするように努力します」という検察側の人間だっている、そちらにも目を向けないと被害者の心の安寧は図れないのではないだろうか。
そもそも、メディアが欲しているのは感情のベクトルの大きさであって、その方向ではないと思う。被害者が赦そうが赦さなかろうが、カタルシスを得られる物語にできればそれでいいのだ。根本的な問題はその物語を欲している社会のほうにこそあるのではないか、藤井氏のいう「赦す被害者」の物語以前に、カタルシスを得るための物語化がなされるそういった状況を打破する試みこそが必要なのではないかと思う。
ホラーハウス社会―法を犯した「少年」と「異常者」たち
2006年1月30日 読書
芹沢一也の2作目、前の『狂気と犯罪』が非常に面白かったので買ってみた。前作では、日本における精神病院をめぐる歪んだ成り立ちと現状が書かれており、これは今までにない視点からの素晴らしい著作であった。
さて、本書は少年犯罪の話題なのであるが、5章のうち2つの章は前作にもあった精神病院がらみの話なので、目新しいのは3章分ということになる。前作を読んでる人にはお買い得度がちと下がるが読んでみる価値はあるかと思います。
少年犯罪に対する反応について、昔は少年の更生を信じていた(もしくは信じようとしていた)社会が、酒鬼薔薇事件とその後の少年犯罪を境に正反対に転換し、彼らを理解不能なモンスターとして排除へと向かいだしたと著者は言う。そして、一方で実体のない不安にとりつかれ、もう一方で治安管理を(子供たちの安全マップ作りのように)エンターテイメントとして楽しんでいる社会が出現しつつある。この歪んだ状況を著者は「ホラーハウス社会」と呼ぶ。
うーん、わしは筆者と問題意識を共有するものであるが、治安管理がエンターテイメント化されつつあるってところにはもう少し冷静な観察が必要なんではないかと思う。昔の子供にとっての夜祭が今の子供にとって防犯パトロールに同行する経験であるといった言い方はどう考えたっていきすぎだろう。子供にとっては非日常はすべからくエンターテイメントなのであるから、なにも防犯意識を高める試みへの参加をエンターテイメント化なんていわなくてもいいんじゃないかな。切り込むべきは、子供ではなく大人が治安管理にエンターテイメントを求めていないかという部分ではないだろうか。
あと、小宮信夫が提唱する「環境犯罪学」に対して、一見そうとは見えないが排除の論理であり問題があるとする筆者の主張はかなり弱いと感じた。わしは小宮信夫の『犯罪は「この場所」で起こる』も読んでいるが、きちんと犯罪者の「立ち直り」「社会復帰」に対する取り組みまで言及されていた。どうも、著者は実態と違うものに的外れな非難を浴びせているように読めてしまう。
たしかに、わしも地域の防犯活動には不気味なものを感じている。防犯マップ作りなんかはいいことだと思うが、いやーな感じがするのは不審者情報ってやつだ・・・
と、ここまで書いて気がついた、あやふやな不審者情報→排除の論理ってなことを書いて終わらせようと思ったが、よく考えたらこういう風に思ってしまうということは、地域住民は偏見に満ちているという偏見にわしが囚われているからではないだろうか。これはわしが実態を知らずにイメージで判断しているからだな、これについてはしばらく時間をかけて考えてみよう、場合によっては自分で参加してみたりするのがいいのかもしれないな。
さて、本書は少年犯罪の話題なのであるが、5章のうち2つの章は前作にもあった精神病院がらみの話なので、目新しいのは3章分ということになる。前作を読んでる人にはお買い得度がちと下がるが読んでみる価値はあるかと思います。
少年犯罪に対する反応について、昔は少年の更生を信じていた(もしくは信じようとしていた)社会が、酒鬼薔薇事件とその後の少年犯罪を境に正反対に転換し、彼らを理解不能なモンスターとして排除へと向かいだしたと著者は言う。そして、一方で実体のない不安にとりつかれ、もう一方で治安管理を(子供たちの安全マップ作りのように)エンターテイメントとして楽しんでいる社会が出現しつつある。この歪んだ状況を著者は「ホラーハウス社会」と呼ぶ。
うーん、わしは筆者と問題意識を共有するものであるが、治安管理がエンターテイメント化されつつあるってところにはもう少し冷静な観察が必要なんではないかと思う。昔の子供にとっての夜祭が今の子供にとって防犯パトロールに同行する経験であるといった言い方はどう考えたっていきすぎだろう。子供にとっては非日常はすべからくエンターテイメントなのであるから、なにも防犯意識を高める試みへの参加をエンターテイメント化なんていわなくてもいいんじゃないかな。切り込むべきは、子供ではなく大人が治安管理にエンターテイメントを求めていないかという部分ではないだろうか。
あと、小宮信夫が提唱する「環境犯罪学」に対して、一見そうとは見えないが排除の論理であり問題があるとする筆者の主張はかなり弱いと感じた。わしは小宮信夫の『犯罪は「この場所」で起こる』も読んでいるが、きちんと犯罪者の「立ち直り」「社会復帰」に対する取り組みまで言及されていた。どうも、著者は実態と違うものに的外れな非難を浴びせているように読めてしまう。
たしかに、わしも地域の防犯活動には不気味なものを感じている。防犯マップ作りなんかはいいことだと思うが、いやーな感じがするのは不審者情報ってやつだ・・・
と、ここまで書いて気がついた、あやふやな不審者情報→排除の論理ってなことを書いて終わらせようと思ったが、よく考えたらこういう風に思ってしまうということは、地域住民は偏見に満ちているという偏見にわしが囚われているからではないだろうか。これはわしが実態を知らずにイメージで判断しているからだな、これについてはしばらく時間をかけて考えてみよう、場合によっては自分で参加してみたりするのがいいのかもしれないな。
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人はなぜ逃げおくれるのか―災害の心理学
2006年1月29日 読書
われわれが思っているように、災害時に人々がパニックに陥って大混乱になるっていうことは実際にはほとんどないそうだ。むしろ目の前の危機を甘く見て脱出のチャンスがあったのにみすみす逃げ遅れてしまうことのほうが多いらしい。
みなさん、ヤバイと思ったら早めに逃げましょう。
なかなかためになり勉強になる本であったが、2年前の本なので直近の大災害の分析がなくて残念。
みなさん、ヤバイと思ったら早めに逃げましょう。
なかなかためになり勉強になる本であったが、2年前の本なので直近の大災害の分析がなくて残念。
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昨年出たと思ったらすぐ売り切れて、ようやく再版が書店に出回ってきたみたいでようやく読めた。
母から見た息子達の抱腹絶倒の生態がこれでもかこれでもかと紹介されていく。わしは四人兄弟で三人男の家系(わしは長男)だったので、これに出てきた男の子がたくさんいる家の玄関ってのはまさにわしの家とそっくりで笑えた。マイ母は、わしら兄弟が小学校の頃は我が家の片付けというものを放棄していたよ(まあ、いまだに放棄してるところを見ると片付ける才能がないのかもしれんが)。
いやでもさ、こんな息子達がいたら母は強くなるよな。家は子供は姉妹だし、やつらの男友達も去勢されたようなのばっかりなので、こういうのを見ると安心する。
母から見た息子達の抱腹絶倒の生態がこれでもかこれでもかと紹介されていく。わしは四人兄弟で三人男の家系(わしは長男)だったので、これに出てきた男の子がたくさんいる家の玄関ってのはまさにわしの家とそっくりで笑えた。マイ母は、わしら兄弟が小学校の頃は我が家の片付けというものを放棄していたよ(まあ、いまだに放棄してるところを見ると片付ける才能がないのかもしれんが)。
いやでもさ、こんな息子達がいたら母は強くなるよな。家は子供は姉妹だし、やつらの男友達も去勢されたようなのばっかりなので、こういうのを見ると安心する。
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ニューイングランドの片田舎で死者が相次いで甦った! この怪現象の中、霊園経営者一族の上に殺人者の魔手が伸びる。死んだ筈の人間が生き還ってくる状況下で展開される殺人劇の必然性とは何なのか? 自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、果たして肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか?
「このミステリーがすごい!’98年版」(通称「このミス」)において、過去10年のベスト20の栄えある1位作品だけあって、確かに面白い。
死者が蘇るという設定を最大限に生かし作りこまれたストーリー。キリスト教の最後の審判と掛け合わせるため舞台はアメリカの片田舎。しかも舞台は死と屍体にかこまれた葬儀屋ときた。650ページの大作であるが、読みやすく一気に読める。
命とはなんであるか、とか哲学的な内容には入り込みすぎず、でも死の薀蓄はたんまりちりばめられ、どたばたありカーアクションありとサービスも満点。複雑怪奇に入り組んだ人間模様もすっきり解決される。確かに面白い。
しかし、しかしだなあ、すっきりしすぎてなんというか作者の情念とかそういったものが感じられないんだよな。わしは決してミステリー読みではないのでいろいろは読んでないんだが、たとえば同じ「このミス」のランキングに入ってる笠井潔の『哲学者の密室』なんかのほうがずっと好きだな。『生ける屍の死』は早く読み終えたくて一気に読んだが、『哲学者の密室』は読み終えるのが惜しくて惜しくて毎日少しずつ読んだ。
読み始めのときは、もしかしたらわしの不動のベスト『虚無への供物』の地位を脅かすのではと思ったが、杞憂であった。せっかく死を扱っているんだから、もっと独特の彩りを施された匂い立つような世界を構築して欲しかった(完全にわしのわがままな意見ですが)。いや、でも面白かったです。
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