「私」はいつ生まれるか
2006年6月5日 読書
【板倉 昭二 ちくま新書】
この前読んだ『「私」のための現代思想』では、「私」に対するアプローチは純粋に哲学的なものだったが、本書では生物学的なアプローチ(実験)により「私」=自己認識を探っていく。
著者によれば、人間は産まれて数ヶ月のうちから既に社会的な生き物らしいです。いろんな実験を工夫しながらやっているのを図解つきで説明してくれるので分りやすいが、そんなに高度なことをやっているようには見えないのが玉に瑕。世界の研究者も限られた人数らしく、ところどころにでてくるこの実験を行った研究者は昔一緒に研究しただれだれとか、だれだれの弟子とかそんなコメントが微笑ましくもあるし、狭い世界なんだなあと思いもする。
この前読んだ『「私」のための現代思想』では、「私」に対するアプローチは純粋に哲学的なものだったが、本書では生物学的なアプローチ(実験)により「私」=自己認識を探っていく。
著者によれば、人間は産まれて数ヶ月のうちから既に社会的な生き物らしいです。いろんな実験を工夫しながらやっているのを図解つきで説明してくれるので分りやすいが、そんなに高度なことをやっているようには見えないのが玉に瑕。世界の研究者も限られた人数らしく、ところどころにでてくるこの実験を行った研究者は昔一緒に研究しただれだれとか、だれだれの弟子とかそんなコメントが微笑ましくもあるし、狭い世界なんだなあと思いもする。
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【檜垣 立哉 ちくま新書】
ここのところ、哲学関連の書籍を読む機会が増えているのだが、本書はさしずめフーコー入門といった内容で、フーコーの「生政治学」の概要をたどり、ドゥールズ、アガンベン、デリダに触れて最後はネグりの『帝国』まで「生権力」の概念を通してみていく。
この前の『「私」のための現代思想』といい本書といい非常に面白かった。たぶん、いまのわしにちょうどいい内容なんだろうな。これで、フーコーの面白さというのが随分とわかった気がする。こういった、わかりやすい解説書はどんどん出て欲しい。
ここのところ、哲学関連の書籍を読む機会が増えているのだが、本書はさしずめフーコー入門といった内容で、フーコーの「生政治学」の概要をたどり、ドゥールズ、アガンベン、デリダに触れて最後はネグりの『帝国』まで「生権力」の概念を通してみていく。
この前の『「私」のための現代思想』といい本書といい非常に面白かった。たぶん、いまのわしにちょうどいい内容なんだろうな。これで、フーコーの面白さというのが随分とわかった気がする。こういった、わかりやすい解説書はどんどん出て欲しい。
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「私」のための現代思想
2006年5月25日 読書
【高田 明典 光文社新書】
いまの世の中で生きづらい人のための現代思想入門。最初にこれから自殺を考えてる人に向けてのメッセージが書いてあり面食らう。
内容としては、「私」とは何かを現代思想の系譜にしたがって解説されていくのであるが、特筆すべきはとりあえず分かりやすいということ。とても丁寧に説明してくれるので、話が複雑になってきてももうちょっとちゃんと読もうって気にさせてくれる。レヴィナスの「他者」についてなんか『レヴィナス入門』よりはるかに分かりやすい。
ひとつ、本文中何度か「今の社会が生き辛く錯乱してて腐臭を放っている」というような内容がなんの議論もなく決めつけられて述べられているのには違和感を覚えたが、今の社会に生き辛い人に向けた本らしいので、それはまあいいということにする。わしは、今の社会を「腐った社会」「狂気と錯乱の世界」と表現することに反論は何もないが、そういう形容詞を使うこと自体、筆者自身が今の社会にそういう気持ちを抱いているということが伺えるな。
大変面白く、なかなかに感動的な一冊でした。
いまの世の中で生きづらい人のための現代思想入門。最初にこれから自殺を考えてる人に向けてのメッセージが書いてあり面食らう。
内容としては、「私」とは何かを現代思想の系譜にしたがって解説されていくのであるが、特筆すべきはとりあえず分かりやすいということ。とても丁寧に説明してくれるので、話が複雑になってきてももうちょっとちゃんと読もうって気にさせてくれる。レヴィナスの「他者」についてなんか『レヴィナス入門』よりはるかに分かりやすい。
ひとつ、本文中何度か「今の社会が生き辛く錯乱してて腐臭を放っている」というような内容がなんの議論もなく決めつけられて述べられているのには違和感を覚えたが、今の社会に生き辛い人に向けた本らしいので、それはまあいいということにする。わしは、今の社会を「腐った社会」「狂気と錯乱の世界」と表現することに反論は何もないが、そういう形容詞を使うこと自体、筆者自身が今の社会にそういう気持ちを抱いているということが伺えるな。
大変面白く、なかなかに感動的な一冊でした。
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志賀直哉はなぜ名文か―あじわいたい美しい日本語
2006年5月22日 読書
【山口 翼 祥伝社新書】
本当は、もっとじっくりとあじわって読むべき本なのかもしれないが、なんともさらさらと読んでしまった。わしは志賀直哉はまったく読んだことがない上に、「小説の神様」といわれてるのも知らなかったへたれなのだが、たしかに紹介されている文章にはおおおと思わせるものが多い。
日本語ってもっと自由に書いてよかったんだな。というのが本書を読んだ収穫。
たまにぱらっと開いて読むと新しい発見があるかも。
本当は、もっとじっくりとあじわって読むべき本なのかもしれないが、なんともさらさらと読んでしまった。わしは志賀直哉はまったく読んだことがない上に、「小説の神様」といわれてるのも知らなかったへたれなのだが、たしかに紹介されている文章にはおおおと思わせるものが多い。
日本語ってもっと自由に書いてよかったんだな。というのが本書を読んだ収穫。
たまにぱらっと開いて読むと新しい発見があるかも。
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「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言
2006年5月21日 読書
【仲正 昌樹 ちくま新書】
アイロニカルな立ち位置を自認している著者が、二項対立について、そしてそれを越えるためのアイロニーについて書いている。それなりに面白いと思うんだが、本書のあちこちに「こんなこと書いたらネットなんかで短絡的にアホな反論を書かれる」的な発言が出てくる。まあ、何があったのかは本書内に書かれているので分かるのだが、かなり根に持ってますな。わしが思うに、アイロニカルな人はもっとクールな物言いをしたほうが似合ってるのではないかな。
はっきりいって、わしのような一般読者は著者の巻き込まれたごたごたには関心がないのであるから、こんな怨嗟の念のこもった物言いは二項対立とアイロニーの一例として書いたにしても鬱陶しいだけである。一瞬、これがこの著者の「芸」なのかとも思ったが、仮にそうだったとしても成功しているとは思えない、どうみても逆効果ですよ。
「分かりやすさ」という名の思考停止が蔓延している。知識人ですら、敵か味方かで「世界」を線引きする二項対立図式にハマり込んでいる。悪くすると、お互い対立する中で「敵」の思考法が分かるようになり、「敵」に似てきてしまう。こうした硬直した状況を捉え直す上で、アイロニカルな思考は役に立つ。アイロニーは、敵/味方で対峙する。“前線”から距離を置き、そこに潜む非合理な思い込みを明らかにする。本書はソクラテスやドイツ・ロマン派、デリダなどアイロニカルな思考の系譜を取り出し、「批評」の可能性を探る刺激的な一書である。
アイロニカルな立ち位置を自認している著者が、二項対立について、そしてそれを越えるためのアイロニーについて書いている。それなりに面白いと思うんだが、本書のあちこちに「こんなこと書いたらネットなんかで短絡的にアホな反論を書かれる」的な発言が出てくる。まあ、何があったのかは本書内に書かれているので分かるのだが、かなり根に持ってますな。わしが思うに、アイロニカルな人はもっとクールな物言いをしたほうが似合ってるのではないかな。
はっきりいって、わしのような一般読者は著者の巻き込まれたごたごたには関心がないのであるから、こんな怨嗟の念のこもった物言いは二項対立とアイロニーの一例として書いたにしても鬱陶しいだけである。一瞬、これがこの著者の「芸」なのかとも思ったが、仮にそうだったとしても成功しているとは思えない、どうみても逆効果ですよ。
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『虚無への供物』論 安藤礼二 がすごすぎる
2006年5月18日 読書
群像の6月号に安藤礼二氏による「『虚無への供物』論」が掲載されていると聞き、本屋で立ち読み。あまりに衝撃的な内容に購入してさらに読み返す。
わしはいままで書評を読んでこんなに興奮を覚えたことはない。もちろん『虚無への供物』というわしが愛して止まない書物に対する論評であるということもあるが、その愛して止まない物語が、ただでさえ複雑怪奇に組み上げられた長大な世界が、その背後に現実と虚構を繋ぐさらに深い闇を抱えていたことを知らしめられることに目が眩むような感慨を覚えたのである。
安藤礼二氏の詳細な調査と読み込み、そして何より恐るべき洞察に感服し敬意を表すると共に、改めて中井英夫という作家の情念に想いを巡らすのでありました。
わしはいままで書評を読んでこんなに興奮を覚えたことはない。もちろん『虚無への供物』というわしが愛して止まない書物に対する論評であるということもあるが、その愛して止まない物語が、ただでさえ複雑怪奇に組み上げられた長大な世界が、その背後に現実と虚構を繋ぐさらに深い闇を抱えていたことを知らしめられることに目が眩むような感慨を覚えたのである。
安藤礼二氏の詳細な調査と読み込み、そして何より恐るべき洞察に感服し敬意を表すると共に、改めて中井英夫という作家の情念に想いを巡らすのでありました。
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「性愛」格差論―萌えとモテの間で
2006年5月15日 読書
『社会的ひきこもり』の斉藤環と『負け犬の遠吠え』の酒井順子が「負け犬」「おたく」「ヤンキー」「腐女子」とその「性愛」状況について大放談。深い話はないが大変読みやすくて面白い。
「負け犬」「おたく」あたりの状況は結構つかめていたが、「腐女子」についてはここではじめて正しい理解ができた気がする、非常に勉強になりました(笑)。昨年の日記に書いた「飛影来て」http://diarynote.jp/d/62692/20050801.htmlの女はまさに「腐女子」だったのかと納得。それにしても斉藤環はサブカルチャーについて詳しい。
全体的に気軽に読めて面白い本書であるが、斉藤環による「はじめに―性愛、この平等に不平等なもの」という冒頭の一文が非常によく、最近の「格差論」全盛のなかでそれを越える新しい視点が開けました。この部分のみ必読。
「負け犬」「おたく」あたりの状況は結構つかめていたが、「腐女子」についてはここではじめて正しい理解ができた気がする、非常に勉強になりました(笑)。昨年の日記に書いた「飛影来て」http://diarynote.jp/d/62692/20050801.htmlの女はまさに「腐女子」だったのかと納得。それにしても斉藤環はサブカルチャーについて詳しい。
全体的に気軽に読めて面白い本書であるが、斉藤環による「はじめに―性愛、この平等に不平等なもの」という冒頭の一文が非常によく、最近の「格差論」全盛のなかでそれを越える新しい視点が開けました。この部分のみ必読。
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月刊 psiko (プシコ) 2006年 06月号 [雑誌]
2006年5月13日 読書
今月号の特集は、「結婚のリアル」と「ニッポン大好き!の心理学」
あいかわらず執筆陣も豪華だし、力はいってるんだよなこの雑誌。でも、仙台でも取り扱い書店少ないし、発行部数どれくらいなんだろうな。わしは応援している、がんばってくれ。
あいかわらず執筆陣も豪華だし、力はいってるんだよなこの雑誌。でも、仙台でも取り扱い書店少ないし、発行部数どれくらいなんだろうな。わしは応援している、がんばってくれ。
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この前からネット友人と話してた本を書店で発見したので衝動的に買う。そのまま読み始め、先ほど読了。
無実の罪で施設送りになり、更正のためにひたすら穴を掘らされ続ける主人公スタンリー・イェルナッツ。彼と同じ施設の少年たち、施設職員そして何より怖い女所長。「まずい時にまずいところに」いることが代々の呪いのようになっているイェルナッツ家の伝説と、彼らが穴を掘るグリーン・レイクの伝説、それらを含むいろいろな要素が絡み合いストーリーは進んでいく。すべての出来事が呼応しパズルのようにはまっていくのは気持ちいい。ストーリーの面白さだけでも読む価値はある。
しかし、この主人公のスタンリーがいい奴なんだよな。どんなに酷い目にあっても悪いことはすべてひいひいじいさんの呪いのせいにしてそれを受け止めていく。デブでいじめられっこだったスタンリーの成長と同じ施設の少年ゼロとの友情がこの良くできたストーリーに一本芯を通している。児童向けだけど大人が読んでも楽しめる、おすすめです。
無実の罪で施設送りになり、更正のためにひたすら穴を掘らされ続ける主人公スタンリー・イェルナッツ。彼と同じ施設の少年たち、施設職員そして何より怖い女所長。「まずい時にまずいところに」いることが代々の呪いのようになっているイェルナッツ家の伝説と、彼らが穴を掘るグリーン・レイクの伝説、それらを含むいろいろな要素が絡み合いストーリーは進んでいく。すべての出来事が呼応しパズルのようにはまっていくのは気持ちいい。ストーリーの面白さだけでも読む価値はある。
しかし、この主人公のスタンリーがいい奴なんだよな。どんなに酷い目にあっても悪いことはすべてひいひいじいさんの呪いのせいにしてそれを受け止めていく。デブでいじめられっこだったスタンリーの成長と同じ施設の少年ゼロとの友情がこの良くできたストーリーに一本芯を通している。児童向けだけど大人が読んでも楽しめる、おすすめです。
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出版が2004年の5月だから、この本を読み終えてからもう二年近くがたつんだな。このとき、改めて『ゲド戦記』を一巻から読み直して新しい発見がたくさんあった。今回の映画化の機会にもう一度読み直そうかと思っている。最初は別に面白いともなんとも思わなかった。でも、読み返すたびに面白くなっていく。おそらく完璧なお話ではない、なにより作者自身が物事は変化するといっている。長い時間をかけて書かれたこの話は、その間に作者自身の成長もまた内包している。なにしろ、三大ファンタジーの一作であり、古典中の古典なのに、語り終えられたのが今世紀に入ってからなのだから。
この外伝のまえがきに、作者アーシュラ・K・ル=グウィンによる物語についての素晴らしい一文が寄せられている。
感銘を受けました。
この外伝のまえがきに、作者アーシュラ・K・ル=グウィンによる物語についての素晴らしい一文が寄せられている。
アースシーのことを書きはじめてから今日まで、私はもちろん変わったが、それは読者も同じだったろう。時代とともにすべては変わるものだが、私たちの体験した変化は急速で、しかも規模の大きい、倫理的、精神的変化だった。原理的なものは重荷でしかなくなり、単純なものは複雑に、混沌は明快になり、誰もが真実だとわかっていたことは、「昔そう考えていた人もあった」程度のことになった。
こうなると、落ち着いた気分でいられなくなる。たしかに私たちは電子機器のきれいなフリッカーなどといった、瞬時にあらわれ、消えていくものも楽しむけれど、同時に変わらないものもあってほしいと願う。私たちが古い物語を大切に思うのは、それが変わらないからである。アーサー王はいつもきっとアヴァロンで夢見てるし、ビルボは「往って還」ってくる。そこにはいつもなつかしい、いとしのホビット庄が待っている。そして、ドン・キホーテは風車を槍で突こうと何十年何百年と変わらず、やっきになっている、といった具合である。こうして人びとはゆるがない確かなもの、遠い昔からある事実、変わることのない単純さを、ファンタジーの領域に求めるのである。
すると、多額の金がそこに注ぎこまれる。需要に供給が追いつくようになる。ファンタジーはひとつの商品となり、ひとつの産業となっていく。商品化されたファンタジーは危険を冒すことはしない。新しい何かを創り出すことはせず、模倣と矮小化に終始する。商品化されたファンタジーは、昔からある物語から知的で倫理的な奥の深さを消し去って、そこに描かれている人間の行為を暴力に変え、登場人物を人形に変え、彼らが語っていた真実の言葉を、陳腐な、ありきたりなことばに変えてしまう。ヒーローは剣を、レーザー光線を、はたまた魔法の杖なり棒なりを振りまわし、コンバインが機械的に刈り取りをしていくように、ガッポガッポと金をもうけていく。読む者を根底から揺るがすようなものの考え方はことごとく排除され、作品はひたすらかわいく、安全なものになっていく。すぐれた物語作者たちの、読者の心を熱く揺さぶった発想あるいはものの考え方はまねされ、やがてステレオタイプ化されて、おもちゃにされ、きれいな色のプラスチックにかたどられ、コマーシャルにのせられ、売られ、こわされ、がらくたの仲間入りをさせられ、ほかのものに置き換えたり、取り替えたりされていく。
ファンタジーの商品化に従事する人びとがあてにし、利用しているのは、子供大人を問わず、とにかく読者が持ってる、打ち勝ちがたい想像力で、これがあるおかげで、死んだ作品もしばらくの間は、ある種の生命を与えられるのである。
想像力は、他のあらゆる生命体と同じように現在を生きる。それは本当の変化とともに生き、本当の変化に基づいて生き、本当の変化から養分をもらって生きるということである。私たちの行為や持ち物と同じように、想像力も時には予定外のものに勝手に用いられたり、弱まってしまうこともあるが、それでも金もうけの道具に使われようと、説教の道具に使われようと、きっと生きのびる。国破れて山河あり。征服者はかつて森や牧場だったところを荒らすだけ荒らして引き上げるかもしれなが、それでも雨は降り、川は海へと流れていく。昔話のうつろいやすく、変わりやすい、不確かな領域は、人間の歴史やものの考え方を記した部分で、それは地図帳に記された国歌のようにくるくるとよく変わるが、なかにはもう少し永続性のあるものもある。
私たちは長い間、現実と空想の両方の世界で暮らしてきた。しかし、その暮らし方は、どちらの場合も、私たちの両親やもっと前の先祖たちのそれとはちがう。人が楽しめるものは年齢とともに、かつまた時代とともに変化していくものなのだ。
私たちは今ではそれぞれに異なる十二通りものアーサー王の人物像を知っている。ビルボが生きている間でさえ、ホビット庄はあともどりできないほどに変化したし、ドン・キホーテは馬に乗ってアルゼンチンまで出かけ、ボルヘスに会った。だが、「変われば変わるほど同じものになる。」ということもある。
アースシーにもどってみたら、まだそれはそこにあって、私は大喜びしてしまった。なつかしかった。だが、変わっていた。今もなお変わり続けている。起こるだろうと予想したことと実際に起こっていることとはちがっていた。人びとも、私が考えていた人びとではなかった。すっかり頭に入っていると思っていた島々で、私は道に迷い、途方に暮れている。
というわけで、これは私の探索と発見の報告書であり、アースシーをこれまで愛してきてくれた人、これから好きになるかもしれないと考えている人、そして次の私のことばを受け入れてやろうと言ってくれる人に、アースシーから贈る物語である。
物事は変化するものである。
作者も魔法使いも必ずしも信用できる者たちではない。
竜がなにものであるかなど、誰にも説明できない。
感銘を受けました。
日本の外交は国民に何を隠しているのか
2006年5月4日 読書
面白い。しかし、読むほどにこの国の状況を思うに暗鬱たる気分にさせてくれる本である。
日本は国連では既に充分に力を持った国である。そして、国連の軍事化に向けて積極的に働きかけてきた国でもある。しかし、そのことは国内にはほとんどアナウンスされないばかりか、まるで逆のことが喧伝されている。官僚の内と外に対するごまかしによって、また政治家や新聞論説委員のレベルの低さによる誤謬によって。公的資料、公的発言をきちんと追うことによって見えてくるものは、論理的なものごとではなく目先の損得によって動いている日本という国の姿である。
外務省内の派閥の問題とか、もっと突っ込んでもらいたいところはあるのだけれど、世界から見た日本外交の姿を知るのには良い本なのではないでしょうか。
日本は国連では既に充分に力を持った国である。そして、国連の軍事化に向けて積極的に働きかけてきた国でもある。しかし、そのことは国内にはほとんどアナウンスされないばかりか、まるで逆のことが喧伝されている。官僚の内と外に対するごまかしによって、また政治家や新聞論説委員のレベルの低さによる誤謬によって。公的資料、公的発言をきちんと追うことによって見えてくるものは、論理的なものごとではなく目先の損得によって動いている日本という国の姿である。
外務省内の派閥の問題とか、もっと突っ込んでもらいたいところはあるのだけれど、世界から見た日本外交の姿を知るのには良い本なのではないでしょうか。
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文章がこなれていてとても読みやすい。でも、それだけで役には立たない。
筆者は、1995年の阪神大震災と地下鉄サリン事件を境に日本人の危機意識は大きく変わったという、それには同意できる。しかし、それ以降も日本人は危機管理のスキルがいっこうに身につかないと切り捨てるのだが、どう身についてないのか印象論ばかりできちんと説明できていない。そもそも、自然災害や人的災害をネタにリスク処理ができていなかったと指摘したってさ、そりゃ指摘するほうは後出しだからいくらでも指摘できるにきまってる。同じことを繰り返すとか、教訓がいかせていないってことを例示しないとスキルが身についてないことを説得的にいえないだろ、本書はそれがまったくできていない。
そして、じゃあどうすればいいんだってことは第6章の「プロテウス的リスク管理」に書かれているんだが、ここはちょっとお粗末すぎるんじゃないだろうか。例示している内容も的外れなものがおおいし(クリストファー・リーヴの話なんか感動的だけどこの文脈では何言いたいのかわからん)、最終的な結論が「利己的に生きろ」っていうのではまったくお話にならない。
後半に行くにしたがって、読んでてストレスの溜まる内容であった。
筆者は、1995年の阪神大震災と地下鉄サリン事件を境に日本人の危機意識は大きく変わったという、それには同意できる。しかし、それ以降も日本人は危機管理のスキルがいっこうに身につかないと切り捨てるのだが、どう身についてないのか印象論ばかりできちんと説明できていない。そもそも、自然災害や人的災害をネタにリスク処理ができていなかったと指摘したってさ、そりゃ指摘するほうは後出しだからいくらでも指摘できるにきまってる。同じことを繰り返すとか、教訓がいかせていないってことを例示しないとスキルが身についてないことを説得的にいえないだろ、本書はそれがまったくできていない。
そして、じゃあどうすればいいんだってことは第6章の「プロテウス的リスク管理」に書かれているんだが、ここはちょっとお粗末すぎるんじゃないだろうか。例示している内容も的外れなものがおおいし(クリストファー・リーヴの話なんか感動的だけどこの文脈では何言いたいのかわからん)、最終的な結論が「利己的に生きろ」っていうのではまったくお話にならない。
後半に行くにしたがって、読んでてストレスの溜まる内容であった。
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毎日かあさん3 背脂編
2006年4月30日 読書
子供が高校生にもなると、部活、部活でGWだからってどこにいけるでもない。下は小2なのでとりあえず近場でごまかそう。というわけで、わしは明日から連休に入ります。
「毎日かあさん」の新刊がでてるよとのネット友からのメール。さっそく買って読む。あいかわらず上手い、というかこの愛情のにじみでてるさまはちょっとずるい(笑)。連載の「毎日かあさん」もいいが、描き下ろしの「ぴにゃりくん」「父の名前」「家族の1コマ」がとてもいいので個人的に満足度高し。
あと、詩人谷川俊太郎とのコラボレーション「ご挨拶」もはいっているんだが、これはホントに素晴らしい。谷川俊太郎の凄さをしった。しかしそれにもましてサイバラが凄い、あんさんこんなんも描けるんか。サイバラの傑作「うつくしいのはら」にもつながる輪廻の世界観だが、これはひたすら生命力に溢れた力強い作品。恐るべしサイバラ。本書の大きさではもったいないので、できればもっと大きな版にして絵本とかで読みたい(7Pしかないけどさ)。
「毎日かあさん」の新刊がでてるよとのネット友からのメール。さっそく買って読む。あいかわらず上手い、というかこの愛情のにじみでてるさまはちょっとずるい(笑)。連載の「毎日かあさん」もいいが、描き下ろしの「ぴにゃりくん」「父の名前」「家族の1コマ」がとてもいいので個人的に満足度高し。
あと、詩人谷川俊太郎とのコラボレーション「ご挨拶」もはいっているんだが、これはホントに素晴らしい。谷川俊太郎の凄さをしった。しかしそれにもましてサイバラが凄い、あんさんこんなんも描けるんか。サイバラの傑作「うつくしいのはら」にもつながる輪廻の世界観だが、これはひたすら生命力に溢れた力強い作品。恐るべしサイバラ。本書の大きさではもったいないので、できればもっと大きな版にして絵本とかで読みたい(7Pしかないけどさ)。
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考える人 2006年 春号 [雑誌]
2006年4月27日 読書
内田樹と養老孟司の対談が載っていたのでと貸して貰った。
対談は大変に面白うございました、でも次号に続くそうです、季刊なので次に読めるのはいつなんでしょうか?内田樹の『ユダヤ文化論』を読みたくなりました、単行本になるのはいつなんだろう?
しかし、こんなマイナーな雑誌も買ってる人いるんだねえ(失礼)。いや、大変ありがたいです。
対談は大変に面白うございました、でも次号に続くそうです、季刊なので次に読めるのはいつなんでしょうか?内田樹の『ユダヤ文化論』を読みたくなりました、単行本になるのはいつなんだろう?
しかし、こんなマイナーな雑誌も買ってる人いるんだねえ(失礼)。いや、大変ありがたいです。
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プログ進化論 ― なぜ人は日記を晒すのか
2006年4月23日 読書
ネットにもブログにも縁のない方に読んでもらいたい
なんて、ブログに書いたところで意味がないですな。立ち読みで一時間ぐらいで読める読みやすさ。『ウェブ進化論』と間違って買う人がけっこういそう。内容は、人気ブログを例にひきつつブログってこんなもんですよと紹介しているものだが、なかなかよくできているのではないでしょうか。わしは、もっと多くの人がブログを書けばいいのにと思っているので、この本を読んでチャレンジする人が増えることを祈っております。
なんて、ブログに書いたところで意味がないですな。立ち読みで一時間ぐらいで読める読みやすさ。『ウェブ進化論』と間違って買う人がけっこういそう。内容は、人気ブログを例にひきつつブログってこんなもんですよと紹介しているものだが、なかなかよくできているのではないでしょうか。わしは、もっと多くの人がブログを書けばいいのにと思っているので、この本を読んでチャレンジする人が増えることを祈っております。
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他人を見下す若者たち
2006年4月20日 読書心理学者の速水敏彦氏は近著『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)で、仮想的有能感という概念を使って若者の心の変容を説明している。若者を中心として、厳しい競争に曝される現代の日本人は、自己を肯定するために、すぐに他人を軽視したり否定したりする。そして、そのことによって根拠のない有能感を持つ傾向があると速水氏は主張する。また、ITメディアの影響を強く受けた人ほど仮想的有能感を持ちやすく、「2チャンネル」をよく見る人において仮想的有能感が強いという研究もある。私はこの本を読んで、なぜネット空間に下品な右翼的言説がはびこるのかについての説明を得たような気がする。
上記は、政治学者山口二郎が雑誌で書いてたことの一部だが、これを読んで本書を買うに値せずと思って放置していた自らの不明を恥じ、早速買って読んだ。
買うまでもなかった。
仮想的有能感という観点は秀逸だし、たしかにいろんなことを説明できると思う。筆者の言うような若者いるよね(若者以外でもいるけど)とだって思うさ。しかし、そんな若者が多い、増えてるってデータもなしに言われたってさ、どれくらいの多さやねんと突っ込みたくもなるだろ。着眼点はいいけどそれを裏打ちする調査(データ)の部分が本書を通じてお粗末すぎるんじゃないか。
特に第七章「日本人の心はどうなるか」は、おやじの繰り言としてはいいけど、絶対に心理学者が書くような文章ではないと思うぞ。一見筋道は通っているが、なんの検証もないことを自分の感覚だけで論を進めているのはいくらなんでも短絡的にすぎるだろうし、ごく一部の人間に当てはまる事例を、あたかも若者全体がそうであるかのような印象を与える書きっぷりは、これはもう危険水域に入ってると思う。
わし的には、この本を読んで、なぜネット空間に下品な右翼的言説がはびこるのかについての説明を得たような気がちっともしないので、もっとネット上での心理に焦点をあてた研究がでてこないかなと思うのです。
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不安型ナショナリズムの時代―日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由
2006年4月16日 読書ネット世代の日韓中の対立関係は、いまや千年一日の紋切り型のナショナリズム論では捉えきれない事態に直面している。「反日感情の増幅」や「若者の右傾化」を憂えたり、批判したりすることよりもいま問題にすべきは、各国における「社会流動化」の進行が「不安」を増幅させ、ナショナリズムがその逃げ場となっている事態だ。旧来の「左右対立」とはまったく異なる形で進行するベクトルを掴むには、雇用不安や階層分化といった国内問題と結びつけて分析されるべきだ。若年層問題がその最大の争点になるだろう。若き社会学者がグローバル資本主義下の三国に共通する課題を浮かび上がらせる。
本の見返しの説明がほぼ本書の内容を語りつくしている。なかなか面白く読みました。しかし、日中韓それぞれの社会が流動化しているということと、若者に先行きが見えないことによる不安が蔓延しているということはよくわかるのだが、日本においてその不安の捌け口として逃げ込む先がなぜナショナリズムなのかということについての考察がなさすぎるのではないかと思う。中国のように政府を直接非難できない政治状況で「愛国無罪」のもとナショナリズムにはしるのはよくわかるのだが・・・。
社会の階層化により下流層が右傾化するという議論は前からもあったが(記憶にある範囲では林信吾『しのびよるネオ階級社会』とか)、広く社会の流動化による不安としたところがいままでになかった視点なのかな。どちらにせよ、なぜ「不安」→「ナショナリズム」に至るのかという疑問への回答にはなってないよな。ここらへんは、速水敏彦の『他人を見下す若者たち』に書かれている「仮想的有能感」という概念が説得力があると山口二郎が書いていたので、おそまきながら読んでみることにする。
わしは、今の社会の右傾化を歓迎しない者なので、右傾化の原因が「不安」だとすれば、その「不安」を取り除くにはどうすればいいのかということになるのだろうな。社会の流動化は(おそらく)止められないであろう、そして流動化が不安を招いているとすれば、それはほとんどが下方に流動しそうだと感じられているからなのだろう。そう考えると、(あいだを飛ばして)いきつこところは「打倒小泉」これか。いまとなってはありきたりですね(笑)。
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月刊 psiko (プシコ) 2006年 05月号 [雑誌]
2006年4月13日 読書
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