わしは、消費者団体とは関係ないし、牛肉の流通業者でもないしましてや生産者でもない。でも、BSE関係の本はついつい買ってしまう狂牛病マニアである(笑)。わしのBSE問題に関する意見は簡単だ。今の世の中リスクのない食品なんぞほとんどない、アメリカ牛だって最低限の検査体制さえ組んでいれば疫学的にみたリスクなんぞほとんどないに等しいんだから早く輸入しろ、わしは気にせず食うから。BSEがどうしても怖い人は、(BSEの権威である)プルシナー博士のように牛肉を一切口にしないようにすればいいんじゃないか、実際全頭検査したってリスクはなくならないんだから。

で、本書であるが、立場的には中間というか、バランスの取れた位置というか、無難な線でまとまっていると思います。BSEにとどまらず広く「牛肉と政治」という視点からハンナン事件のあらましを捉えているところはなかなか面白かったです。また週刊現代ででていた、ニュージャージー州の競馬場にからむヤコブ病の異常発生の件を取り上げているのも面白い(内容としてふさわしいのかは疑問だけど)。

筆者は日本の科学者に対して、全頭検査で狂牛病パニックが収まったときには、全頭検査はあまり意味がないとか検査でも全部のBSEを発見できるとは限らないなんていわなかったのに、アメリカが日本に圧力かけだしたら言い出して卑怯だという批判をしている。しかし、それは科学者のせいではないということははっきりいえる。狂牛病パニックは明らかに政治的な失策であり、その当時科学者が発言してないように見えるのは、マスコミが取り上げなかったから、あるいは取り上げ方が中途半端であったからである。その部分に関してだけは著者に反論したい。
ここ10〜15年ぐらいであろうか、どこの地方都市にいってもなんだか国道沿いの景色がみんな同じようになったと感じるのは。おそらくこのことは多くの人が感じていることだと思うが、著者はこれに「ファスト風土化」という名前を与えた。まあ、こんな名前付けなくても郊外化でいいんじゃないかという気もするが、まあよろしい。

地方都市において、高速道路の整備などで、人や物の動きの自由度が上がった結果、大型ショッピングセンターや全国地チェーン店を拠点とする商圏の郊外化が進み、古くからの市街地の商店街は瀕死の状態になった。それにより地方都市の均質化が進み、また犯罪も郊外化が進んでいっている。そして、著者はこのことに警鐘をならしているわけである。

思うに、いまの郊外化されたチェーン店よりは市街地の商店街のほうが地方色は出てるだろうが、かといってとりたてていうほどのオリジナリティがあるわけでもないのではないかと。犯罪の郊外化が進んでいるであろうことはわしも認めるが、人々の生活形態が変われば、犯罪も様変わりするのは当然である。著者は郊外で起こった事件を羅列して病的なイメージを掻き立てようとするが、根拠に乏しく強引過ぎると感じる。

なにより、イオンを名指しで批判してるのはどうなんだろうな。べつに固有名詞をださなくても大型ショッピングセンターでいいんじゃないのか?著者はイオンに恨みでもあるのかな(笑)。わしは関係者ではないので利害関係はないが、それでもかなり批判の根拠が乏しいと感じる。「犯罪現場の近くにはジャスコがある」ってそりゃイオン関係者が読んだら怒るんじゃないかの。だって、イオンが人の心を蝕んでるっていってるんだもんな。

といいつつも、それでも著者の言ってることの半分ぐらいには同意する(あ、少ない?)。面白いネタだと思うが、強引な論理展開でかなり損してると思う。本書は、商店街の人が溜飲を下げるのにはもってこいだと思うが、今起こってることをきちんと分析して知りたいという欲求には答えきれてないと思う。
うーん、なかなかコメントしがたい本ですな。著者の仕事は歯科医兼著述業、人間嫌いを自認している。そんな著者が「いっしょに暮らす」ということについて考えた本。対象は、夫婦・家族に始まりルームシェア、寮生活、下宿、マンション、長屋、「新しい村」や「ヤマギシ会」などの共同体、etc・・・といっしょに暮らす人間関係への考察が続いていく。題名に『いっしょに暮らす。』と句点があるのは、著者の前向きの決意表明だそうである。

まあ、なんですな、いっしょに暮らすということはどんな形態であれ不断の努力を要するものですな。家族もちのわしはひしひしと感じてます、はい。で、読後感としてはなんともコメントしがたい気持ちを抱えているんだが、もしかしたらこの著者のほかの著作は面白いのかもとは思った。いや、本書がつまんない訳ではないんだが・・・。面白かったのは、夏目漱石の『こころ』をとりあげ考察を加えてる章、あらためて漱石の偉大さを感じたわけです(あと、小津安二郎と)。いや、とりあえず・・・全般的にびみょ〜な本でした。
なぜか哲学書のコーナーに平積みされてたのでなんだろうと読んでみる。昼休みの立ち読みで読了。

あー、要はあれだな、三砂ちづるの『オニババ化する女たち』といってることは同じだな、つまり”もっとセックスしなさい”ってことだ。まあ、こっちは結婚してる奥様にのみ言ってるところが違うんだけど。

内容は奥様向けで、もっとだんなを理解して自分を磨いてセックスしましょうってことが書かれている。いいセックスすれば夫婦仲も自ずからうまくいくし、身体も調子よくなると。困っただんなともできるだけ会話をしたり、自らエロの勉強してセクシーになってたくさんいいセックスしましょうと・・・。そして、それでも駄目な男はさっさと捨てましょうと、子供が大人になるまでとか学校でるまでとか我慢していては駄目、早く自活できる道を探してとっとと見切りをつけなさいと、そういう内容でした。

いやあ、同意するところも多いんだけど(男に早く見切りをつけろとか)、こんなこと(セックスを迫ること)奥さんがどんどんやり出したら、世のお父さんたちはもう夜も眠れないほどの恐怖に打ちひしがれるのではないかと、そう危惧いたします。

で、この本が「オニババ・・・」みたいに売れたら、みんなセックスしないとっていう危機感とか不安を抱いてるってことなんだろうかね(いや、じっさい売れるかもしれないって思うわけだ)。著者名も三砂ちづる、二松まゆみとなんか似てるし・・・。
さて、内田氏と釈氏の往復書簡も2巻目に入りエンジンがかかってきたのか俄然面白くなる。結局はなんですな、内田氏が言いたいこと言いはじめると面白くなるんですな。一方の釈氏の浄土真宗講義もなかなか勉強になる。しかし、1巻目に引き続き、話は微妙にずれているのがまたおかし・・・。

ただひとつ気になるのが、お互いに「内田先生」「釈先生」と先生付きで呼び合ってるところですな、『東京ファイティングキッズ』の「内田くん」「平川くん」がよかったです(まあ、今回はそういうわけにもいかんのでしょうが)。で、ちょっと思い当たって『東京ファイティングキッズ』をぱらぱらとめくってみたら・・・同じ話してますよ>内田先生。

今回もほとんどの部分を昼休み読書で読んだんだが、たまたま同僚と飯食ったときに「なに読んでんの?」って聞かれたのでこの本の題名をみせてやったらかなり引かれた・・・。やっぱり変ですかね。
内田氏は最近、往復書簡ものや対談本の量産体制に入ったようだ。まあ、似た話の切り口を変えてるだけといえばそれまでだが、面白いのでいいや。

今回の往復書簡相手は浄土真宗の僧侶、釈徹宗氏。内田氏の質問に仏教の観点から釈氏が答える内容になっている。幼馴染の盟友平川克美氏との往復書簡本『東京ファイティングキッズ』のような、二人が完全にシンクロして話がどんどん進んでいくのとは少し展開が違い、内田氏と釈氏の間には微妙なずれがあり、それがまた面白くもある。

2巻完結なんだが、まだまだ話は助走の部分という感じ。しかし、内田氏がレヴィナスを語るときは本当に熱くて素晴らしいな、どんどん洗脳されていく自分を感じます(笑)。
わしは、いまだに姜尚中をカン・サンジュンと読めないのであるが、姜尚中のファンである(笑)。本書は、在日朝鮮人であるところの著者が、日本と韓国への思いを戦後の二国間の歴史を振り返って著した本である。

我々日本人は、韓国に対して太平洋戦争の責任のみを考えるが、彼らはその後朝鮮戦争の地獄を体験し(そのとき日本は政治的には内にこもり、経済的には戦争特需で復興した)、アメリカの戦後戦略で共産圏への橋頭堡として使われ、日本が関係改善して援助したのは民衆に抑圧的な軍事政権まがいの政府であった。なるほど、恨みも積もるであろうな。

本書で、著者の言う東北アジア地域主義の構想に、わしも賛同する。実現は遠そうではあるが、意外と否が応でもいっしょにやっていかないといけない事態になるかもしれないしな(北の崩壊に伴ってとか)。いや、ホントに、われわれの世代で少しは何とかしておきたいもんだとそう思った。

新書はわりとタイムリーな物事を書けるメディアであると思うが、本書が書かれた直後、日韓の竹島をめぐる争いが表面化していきなり関係が悪化し、日韓情勢はずいぶん変わってしまった。本書では主に北の問題を中心に心配していたのに、このめまぐるしく変わる極東アジア情勢はなんなんだろうな、著者も気の休まる間が無いであろう。おそらく、われわれ(日本以外も含めて)に欠けているのは、共感と寛容の精神であるな(腹黒いわしがいうことではないが)。

ほめるな

2005年3月27日 読書
教育関係本であるが、ぱらぱらと見て、買うまでもないなと思い本屋で立ち読みで読了。

著者は言う、近頃流行の子供をやたらほめる教育は子供の本当のやる気を損なうのでよくない、学校で子供をやたらほめながら進める授業、これはまるで動物の調教をしているみたいだと。著者はやたらほめることの悪いところをあげつらっていく、しかし内容を読めばわかるが、これは逆に叱りすぎることを持ってきて読んでもまったく同じ批判である。叱る授業も動物の調教のようにみえるし。まあ、著者は「ほめるな=もっと叱れ」と言ってるわけではないんだが、叱ることの弊害も書いとかないと絶対に勘違いする人がでてくるよな。

で、著者の主張はというと、要は「教育には無償の愛を持ってせよ」ってことだ(他にもあるが)。いあ、それはそうだと思う、ただ、そうできない人が多いからどうすればいいんだろうってのが一番の問題だろ。それでも親は子供を育てないといけないし、教師は教えないといけないんだから。

「無償の愛」って言葉は理想的かつ曖昧に響きすぎてこういった書物では似つかわしくないと思う。むしろ『オレ様化する子どもたち』にもあったように、子育てとか教育は親や社会からの子供たちへの「贈与」である、としたほうが分かりやすいのではないかと思う。つまり、見返りを求めるものではないので(成績で一番になったら何か買ってあげるといった)取引に使うものではないというふうに。

まあ、ほめてばかりはよくないってことには同意するが、いまいちすっきり納得するまでには至らない本でした。
これは面白い!これからの学校教育問題を考えるときに絶対に外せない本になるのではないだろうか、教育について関心がある人は必読。

著者は「プロ教師の会」代表。現場にいたことの言葉の重みとはこういうことかと感じずにはいられない。「プロ教師の会」ってなんかへんなこという人たちの集団と思ってたがかなり見直しました。通常、親はせいぜい数回しか子育てをしない、批評家は外側から学校や子供の有様を見ているだけだ、その点教師は数十年にわたり同じ視点から子供たちを見ている。子供たちがどのように変わっていったのか、そしてその原因は学校にあるのか、はてまた家庭に?それとも社会に?

本書では前半で著者が今起きていることを分析していき、後半で著名な教育論者の考え方を批判的に見ていく。そしてその批判の中で前半の著者の分析をさらに深く掘り下げていく。その切り口は鋭く、恐ろしく説得力がある。この本の示唆しているところは深くそして重要である。教育とはなにかあらためて考えさせられた。

話はそれるが、本書で「夜回り先生」こと水谷修に言及している章がある。これを読んで、なぜ夜回り先生の話を読むたびになにか突きつけられるものを感じるのかがわかった気がする。著者は言う――水谷氏は職業から「夜回り先生」と呼ばれているが、氏の真の姿は街に現れた聖者なのであり、「神」なき「神」の代理人である。――つまりは「教師」ではないということなんだが、わしの実感もずばり彼は「聖者」であるってことだ。聖者を前にすると世俗にまみれた腹黒いわしはとても居心地が悪くなるのである。
本書は、ジャーナリストのドーリス・ヴェーバーが精神分析学者のアルノ・グリューン教授に問いかけ答えられる形で書かれている。教授の主張は、おそろしく簡単にいうと子供時代の親との関係を見直すべきということである。

うーん、面白くなくはない。わしにとって耳の痛い話もあるし参考にはなる。ここで書かれていることは、アダルトチルドレン関係の書籍等でいわれていることとおおむね同じである。ただし、残念ながらこの本を読んで、はたと自分の子育ての問題に思い当たり、考え直してやり方を変えてみようといった事態はほとんど起こらないと思われる(まあ、子育て本ではないのでそれでいいんだが)。アダルトチルドレン関係の書籍が流行ったときもそうだったが、人は自分の生きにくさの原因として自分の親の責任に思い当たるのは容易だが、加害者としての自分に心あたるのは大変に難しい。アダルトチルドレンのときは自分を被害者として規定しやすかったが、本書においては、おそらく、自分のこととしてではなく他人のこととして、「ああこういう人いるよね」「こういう教育する人いるいる」とかいうふうに読まれるのではないかと思う。

問いかけに答える形で書かれているため、読みやすくはあるが、全体的に散漫で、ああそうですねで終わる感じがする。読者に、他人事と逃げられない、鋭く突っ込んでくるものがあれば良かったのにと思いましたです。
長女がカバーつけた本読んでると思ったらこの本だった。早速、本屋で立ち読み。中高生向けなのであっという間に読めた。

えー、大変に常識的な性教育の本でした。産婦人科医の著者が、やさしい文章で読者に語りかけるように書かれており、特に妊娠についてと性感染症(STD)にかんする内容が充実していて、子供たちが一番知るべき知識をきちんと書いてあるという感じですな。あー、でもこれくらいは学校でも教えたほうがいいんじゃないのかな。必要以上に怖がらすことはないと思うけど、どんなリスクがあるのかぐらいは知っといたほうがいいよな。

年頃の娘を持つと親は何かと心配なもので、妻からはあーいうことがあったこういうものが出てきたといろいろご報告いただくのであるが、「まあそんなもんじゃない、まともなほうだよ」とわしは答えつつ、娘がネットで何してるかはきちんとチェックしている。しかも教えたら妻がますます心配するのでダマ(笑)。こういう本を自力で探してきて知識を得ているのであればそれはそれで大助かりだな、ネットで情報を得るよりよほどいい。自分の必要な情報をきちんと得る方法が分かっているようだし、もう少し泳がしておいてやるよ>娘。

高校に入るとさすがに携帯も持たせてやることになってるし(いままで持たせてないだけでもすごいことだが)、ますます心配ですな>妻<なるようになるさ、親に心配かけるのが子供の仕事だ。
えー、最初に言っておくと本書は、『ガンダム・モデル進化論』という題名であるが、内容は「ガンダム・モデル進化史」である。ガンプラ前史に始まり現在に至るキャラクターモデルの進化を、そのアニメの世界の広がりに加えその時期の社会状況も踏まえたどっていく。視点は定まっておりなかなか良くまとまっているんじゃないでしょうか、興味のない人には訳のわからん話の羅列でいやになると思うけど・・・。まあ、ここまで詳しくやる必要があるのかどうかは分からないが、筆者のガンダムに対する思い入れは良くわかりました。わしとぴたり同世代なので筆者自身のエピソードはまさにわしがやっていたのと同じことでなかなか笑える。

わしはガンダムに関しては第一世代でファーストガンダムの洗礼を受け、もちろんガンプラブームの第一世代でもある。ちょうどわしが中学生のころで、すべてのエピソードを見なけりゃと思ったはじめてのアニメであったし、ガンプラは並んで買った記憶がある。われわれの世代はほぼ(女子も含めて)ガンダムの洗礼を受けているはずである。

で、でだ、実はわしはガンプラに関してはかなり思い入れがある。最初は、いかにキレイに作り塗装するかってのが興味の対象であったのだが、本書でも触れられているホビージャパン別冊「HOW TO BUILD GUNDAM」を手に入れたことがわしのモデル観を一変させた(この別冊は仲間内でもかなり希少価値があり、何度も友人に貸し出しもしたし譲ってくれと頼まれもした)。そこにあったのは、いかにキレイにモデルを作るというレベルではなく、いかにリアルにガンダム世界を再現するかというレベルの造形であった、戦闘でついた傷や排気のすす汚れなどまで再現されており、買ったそのままではできないポージングをしていた。わしが初めてジオラマの世界を垣間見た瞬間であった。

まあそういうわけで、わしのガンプラへの傾倒はその後ジオラマの世界へと変わっていくのだが、それも高校までですっかりモデルの世界からは離れてしまった。「ガンダム」も次作の「Zガンダム」が浪人時代ということもあり未見で、その後の展開も分からないまま離れていった。話題のガンダムモデルが発表されるたび興味はあったのだが店に足を運ぶまでには至らなかった。いや、しかしこんなに出てたんだな、ガンプラ。この本読んでPG(パーフェクトガンダムシリーズ)のザクを一体欲しくなりました

犯罪者プロファイリングってのはこんなもんだろうなと思ってたことがその通りですと書いてた本。面白くなくはない、でも目新しいこともあんまり書いてない。知識を少し増やしたという意味において読んで損はなかったかな。

プロファイリングはまだ歴史の浅い犯罪捜査方法であるが、あくまで効率的に捜査を進めるための道具の一つであって、犯罪者プロファイリングが事件を解決するわけではない。まあ、ドラマのようにプロファイリングでばんばん事件を解決って訳にはいかんわな。プロファイリングについて基本的な知識を得たい人にはいいかもね。でも、これ読んで著者の思惑通り、プロファイリングに興味を持ちプロファイラーになりたいって思う人いるのかな?

最後に、内容とはあんまり関係ないが、章割りをもう少し考えたほうがいいと思う。やたら長い章や短い章があり、そのわりにきちんと内容が章でまとまってないような気がする。特に昼休みに一章ずつ読もうとする人にはちょっと不便でした。
なぜか、こういう精神科医の書いた本とかメンヘル関係の本って結構買ってしまう。さすがにうつ関係の本とかは、最近関心が高まってるせいか、ほとんど内容が同じでしかもいろんな人が書いてどんどん出てくるので自粛しているが、この本のようにちょっと目先が変わってるとついつい買ってしまうんだよな。

で本書であるが、クリニックを開業している精神科医が、精神科外来(看板は精神科、心療内科からメンタルヘルスとかいろいろあるが)とはどういうところで、どんな治療がされたりどんな人が来るのかをきわめて分かりやすく具体的に説明してくれるという内容になっている。予備知識として持っておくのもいいし、実際に訪れようとしている人とか家族が読むのもいいと思われる本ですな。

わし個人としては、精神科の医者がどのように薬を使うのかってことが非常に興味深かった。精神科=薬漬けってイメージがあったが、それは実際にそうであるってことと、なぜそういう治療になるのかってのがよく分かった。薬はほんとに道具として必要なんですね。ネットでメンヘル関係のところでは、ほとんど参加者の薬自慢みたいになってるところが多くて妙な感じを抱いていたんだが、なるほど、これからは少し違った目で見ることができそうです。
いやあ、これは面白い本であった。最近は、精神障害者の犯罪が問題になったりするが、日本は精神病の入院患者が圧倒的に多い国でもある。再犯の恐れのある触法精神障害者が街に溢れているというイメージが作られている反面、この入院患者の多さはなんなんだろう?本書は、明治以来の精神病院のなりたちからどのような施政が行われてきたのかを丁寧にまとめてこの疑問に答えてくれる。

内容は、かなり目から鱗でした。著者は触法精神病患者にも健常者と同じ裁判をと訴えているのだが、わしは本書を読むまではどうも納得がいかなかった。しかし本書を読んで筆者の主張の根拠がよく分かったよ。今の日本の触法精神病者をめぐる状況は、歴史的になものに多くとらわれておりかなり歪んだ姿になっている。これはたしかにたくさんの人の悲劇を産んでいる。今のこの状況をきちんと知りどうすればよいかを考えるために本書は必読であるといえるだろう、読むべし。

感じない男

2005年2月16日 読書
これはなかなか面白い本であった。男が読んでも面白いがぜひ女性に読んでもらいたいと思う。あなたに娘がいれば、少なくともモーニング娘。のメンバーにしたいとは思わなくなるだろう(笑)。

男のフェチや性欲について、筆者が筆者自身の体験と自分の内面を見つめなおすことによって、その正体を考えていく。出た結論は「男は感じていない」ということ、そして「男は自分の身体を汚いと思っている」ということ。なるほど、面白い。そしてたぶん当たっている。わしは個人的にはミニスカに萌える気持ちはよく分かる、制服もまあ分からんでもない、ロリコンの気はないが著者が書いてるのはそのとおりだと思う。

わし自身は「感じない男」としてのトラウマを背負っている男の一人であると自覚するが、まあ、とくに問題もないしそれ自体楽しめるし、何の不都合も感じないな。そういう意味で、最終章の『脱「感じない男」にむけて』は、これで「感じない男」を克服することが男にできるのかなという気もする。セクシュアリティは人により千差万別、要は法に触れない範囲でそれを満たしてやることができればいいのではないかな。「(男は)快感の面で女に勝てないことは分かっているから、女の快感を支配したり、コントロールすることによって、女よりも優位に立とうとする。女の快感を支配するときの優越感でもって、自分の不感症を帳消しにしようとするのである。そして、それは不思議なことに、一種の癒しの感覚として体験されるのである。」と筆者は書く、ならばそういう機会を与える風俗にいって、擬似的にでも癒しの感覚を得ようと訴えるほうが効果があると思うのだが。

わしが、筆者にもっと突っ込んでもらいたかったのは「ロリコン化がとまらない社会」これに対しどう取り組んでいくべきかという問題である。こちらのほうがよほど深刻な問題であるとおもうんだが、どうでしょう。

「人妻」の研究

2005年2月14日 読書
俗に「一盗二婢三妾四妻」というらしい。これは、男性から見た性の対象としての女性のランク付けであるが、「盗」というのは人妻を寝取ること、つまり「人妻」は最高ランクなのですね。「妻」が最低ランクなのも笑えるというか、妻帯者の私にはよくわかるというか(いや、嘘です)。

さて、本書ではその「人妻」がどのように見られてきたのか、その変遷をいろんな文献から探っていくのであるが、まあなんですな、社会学的には面白いかもしれんが、わしのエロスは満たされないな(あたりまえか)。

鎌倉夫人や芦屋マダムやら武蔵野夫人に自由が丘夫人、軽井沢夫人とまあ地名+夫人ってのもいろいろあるのね、まあそんな話でした(何)。最後は、『金曜日の妻たち』から『不機嫌な果実』にいって『失楽園』でしめるという、不倫ドラマめぐりで終わるのでした。結局、昔も今もあんまり変わらないってこと???

さて、ここで敗戦直後の代表的な「恋する人妻」子爵夫人・マダム鳥尾のお言葉を「女をほんとうに夢中にさせる男というのは、奥さんがいて、それにきまった愛人もいて、さらにすんなりとつまみぐいもできる男のことで、それをなんの破綻もなくおこなえる人でなければならない。」 がんばれ!!>俺。
一年近く前に買ったっきり、積読されてた本。何で買ったのかなあと思ってたら、一緒に雑誌現代思想の「特集 死刑を考える」、池田晶子『死と生きる獄中哲学対話』とか買ってた、死刑関係でまとめ買いですね(変人)。

思ったよりも面白かった。麻原の国選弁護人が書いた本なので内容は当然被告人寄りなのだが、書かれていることには納得するしおおむね同意する。一連のオウム事件に関しては、麻原は実行犯ではないので謀議責任について裁判は争われる。弁護人が検察側に求めているのは、起訴された控訴事実について証拠をもとに証明することである。それが、麻原裁判においてはまったくでたらめになっている、このでたらめさを見逃すことはひいては国民全体の権利を損なうことになるであろう(だからちゃんとやろうよ)というのが本書の訴える内容である。

ただし、この本に書かれているのはあくまで弁護側にとって都合のいいことだけであり、語られていない多くの不利な内容も現実には存在する、中立的な立場ではなくあくまで弁護側の立場から書かれた本であるということは頭に入れておく必要があるだろう。特に、もともと陰謀史観の強い元信者なんぞが読んでそのまま受け取ってしまうと、やはり尊師は素晴らしかったんだ悪いのは村井をはじめとする幹部だ、ってことになるのは目に見えている。そういう意味では危険な本であるとも言える(まあ、信仰の自由という面ではそれでもいいんだけど、そこらへんが私の中でも微妙に割り切れないところである)。

私が一番印象に残り深く同意するのは「一連のオウム事件・麻原裁判で、本当に大得をしたのが警察であり、大損をしたのが国民であるという決算書を作成してみる必要があるのではないか。」という部分である。オウム事件における警察の恣意的な捜査は本当に酷かった、カッターナイフ持ってたら危険物所持、マンションでチラシ配ったら住居不法侵入、そういったことが堂々と新聞でも報じられ、異議を唱える声はあまり取り上げられなかった。いざとなったらなんでもありで結構通ってしまうという前例を作ってしまった結果、今は反戦活動とかに対して同じことが行われているのである。

実は、オウム真理教に関しては友人の入信(まだ世間にほとんど認知されていなかったころ)という事件があったため、かなり初期から追っていたので思うところはいろいろとある。そのうち思い出して書いてみたい。
今日は大きい本屋にいって「野ブタ・・・」の続きを立ち読み。きっかり昼休み時間で読了。やたら読みやすいな。

なかなか面白かった。高校生という集団の中で過剰適応して人気者としての地位を保っている主人公修二が、転校生の「野ブタ」(名前忘れた)を人気者にプロデュースしていく。テンポのいい文体で、ストーリーも面白いんだが、もうちょっと他の登場人物を掘り下げて欲しかった(いいんだけどね)。あと、最後の最後でちょっと逃げましたね>白岩君。もうあと50P分ぐらい書いたほうがよかったんじゃないのかな。

話は変わるが、主人公桐谷修二はわしと同じ腹黒人種だな、よしよしそれで正しいんだ、ただ自分が魅せようとしてるキャラが薄っぺら過ぎるだけなんだよ。もっと、よくみると魅力的とか話してみるとと深い人だなと思わせる魅せ方ができるのが大人ってもんだ、精進いたせ(何様?)。
3月の公立入試に向け、いよいよぴりぴりとした雰囲気が我が家にも・・・と思ったら、公立推薦が受かってしまって我が家の受験シーズンは終わりました。私立の入学金も取られなくて済んでまったくめでたしめでたしなんだろうな。うまくやりおったな>娘。

『問題な日本語―どこがおかしい?何がおかしい?』
で、とりあえず合格祝い第一弾にこの本をあげる(わしが読んだあとだけど)。
いわゆる日本語本だけどなかなか面白い。結局日本語の正しい正しくないは使ってる人が多いかどうかになってくるのねと、間違いだろうがなんだろうがみんなが使えばそれでいいのだとそういうことなんですね。ネットとかアンケートでその言葉の使用状況とかを調べてるのが好感度大。マンガもなかなかいい。売れるてるのもよくわかる。

で、結論としては日本語ってホントに難しいですねってことだな。

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