「英霊論」「犬死に論」を超えるために!
7000名に及ぶ特攻戦没者。長い間、政治的なバイアスがかかり、彼らの真意は伝えられなかった。昭和史研究の第一人者が、彼らの真意は伝えられなかった。昭和史研究の第一人者が、遺書・日記を新しい視点から読み解く。


保坂正康を読むのは2冊目、著者に感じるのはどちらにも偏らないバランス感覚のよさと真摯な姿勢であるな、好感が持てる。著者は特攻隊員の遺稿を読むといつも涙が止まらないと告白する、しかし、涙による美化では「特攻」について感情の領域での判断になりかねないと、その気持ちを抑えながら論を進めていく。

著者は、特攻作戦を考え出し指揮した軍事指導者や送り出した教官を断罪する。戦後、この悲劇を産んだ責任はどこにあったのかきちんと決着が付いていない。先ずはそこからはじめるべきであると。「特攻作戦」について、いままでの「英霊論」や「犬死に論」ではなくさらに一歩深く踏み込んだ考察が得られる好著でした。

続いて、同じ著者の『あの戦争は何だったのか』にいってみます。
続々と刊行される内田樹対談本。次なるお相手は精神科医春日武彦氏。いつものように大放談が繰り広げられる。前回の精神科医名越康文氏との対談本『14歳の子を持つ親たちへ』と合わせて考えると、内田対談は精神科医と特に相性がいいようである、大変に面白うございました。

子育てに始まり、負け犬、ひきこもり、自分探しなど現代社会に特有の問題に、刺激に富んだ視点で思わぬ気付きを与えてくれる、いつも以上に目から鱗の落ちる対談本でした。これはお勧め、ここ最近の内田本でも出色。あなたがどういう立場でも何らかのヒントを得ることが出来るでしょう。黙って読むべし。
余命わずか、ガン末期の「オレ」が語るバイク、ドラッグ、クラブ、そして友人イデイ…肺ガン!)B期、余命2年を宣告された著者が、闘病記「31歳ガン漂流」「32歳ガン漂流エボリューション」につづけて放つ自伝小説。J・ケルアック「路上」へのオマージュをこめたノンフィクション・ノベル!


これがすべてノンフィクションではないとわしは思うが、ほとんどはそうであろう。彼は自分の汚れた部分こそをさらけ出し、疾走感のある青春小説にしたかったのであろうか。それとも、感動を持って彼の文章を読もうとする人々への彼なりの強烈なアンチテーゼだったのだろうか。
公平な目で見て、小説としてあるいは読み物として、完成度の高いものではないと思う。ただ、ある程度執筆時の状況を知る者としては、命を削って書いたなという重みはひしひしと感じる。この本は、「ガン漂流」シリーズを読んだあとに、著者に対し好感を抱いた人が読むべきものであると思う。彼の本領はあちらのシリーズ(ブログ)でこそ発揮されていると感じる。
続々と刊行される内田樹対談本。先生、楽して儲けすぎですよ。

今回の対談相手は治療家(でいいのかな)池上六朗氏。身体論を中心に二人で言いたい放題。会話は、お互いに同意を繰り返し、どんどん盛り上がり、最後のほうではどちらの発言か分からないほどのシンクロぶり。わしは、普段より内田節に洗脳されているので正常な判断が働いているのかどうか分からないんだが、いつも通り面白かったです、はい。

わしが特に面白かったエピソードがひとつ。
内田氏は27,8歳のころかなり厳格な玄米食をやり、玄米と有機野菜だけで半年ぐらい過ごしたそうだ。そうするとすっかり脂っ気が抜けて健康になったのはいいが、周りの人が汚く見えてきた。みんなゴミのようなものを食っているように感じて、いちいち人に忠告してしまう。そうすると友人はどんどん離れていってしまうし、健康にはなったがどんどん日々不愉快になっていく。
そこで、これは「健康」の概念が間違っていたときっぱり玄米食をやめ、それ以降はジャンクフードもばりばり食べるようになったということだ。

なるほど。その社会で流通している「常識」の範囲内で生きることの大切さというか重要性を改めて感じた。孤高を生きるのはかっこいいし憧れるが、普通に生きることこそわしの目指すものであるな。でも、普通に日々ルーチンを守るものの前にこそ転機が訪れるってのも内田氏のいっていることなんだよな。

働きマン 2

2005年7月29日 読書
仕事が楽しければ人生は楽園だ!

いあ、それはそうかもしれませんがね・・・。

『働きマン』も2巻目になってますます好調だ、安野モヨコ上手いよなと思う。分かりやすくて、モチベーション高くて、なんだかやる気になる(わしはならないけど)。仕事中毒も悪くないかもと思ってしまうもんな(わしは思わないけど、じゃあどっちなんだって)。

いや、ほんとこの話は好きなんだ。好きなんだけど『のだめカンタービレ』みたいに夢中にはなれないな。どんな鉄火場でも修羅場でも(そうであればあるほど)もうちょっとゆるくいくのがよろしいんではないかと、そう思うわけですはい。まあ、マンガの製作現場とか雑誌の編集の現場はそうもいってられんのかもしれんが(わしが特別ぬるすぎるってのもあるか)。

しかし、登場人物のネーミングはこれは作者の趣味ですか?笑
寝不足で眠くてもこれなら読めるかなと買ってみた。いつものらも話はさくさく読めます。

わしは、らもさんが大麻でつかまったときちょうど『アマニタ・パンセリナ』を読んだ後だったので、さもありなんと思った記憶がある。『アマニタ・パンセリナ』は彼の(合法)ドラック遍歴の記録と考察であるが、ところどころに「違法ドラッグはやってません」という内容の文章が出てくる。ニヤニヤしながら読んでたんだが、捕まった報道をみてやっぱりというかなんというか、でもらもさんを知る人はまったく意外に思わないだろうなとか考えてた。

この本は、突然のマトリ(麻薬取締官)の家宅捜査から拘留され保釈、裁判、判決にいたる顛末記であるが、一貫してらもさんはらもさんであるのであった。留置所でしたためた詩(というかポエム?)はかなりいただけないんだけど、らも節は好きなので許す。
図書館でさくさくと読んだ、早速下の娘の寝かしつけ話に使わしてもらおう。しかし、羊男と羊博士のキャラクターは秀逸だよな、これでしばらく盛り上がれます。

内容的には村上春樹版『不思議の国のアリス』ですかね。なつかしの双子ちゃんも出てくるし、佐々木マキの絵も良いです。

羊をめぐる冒険

2005年7月13日 読書
面白かった。こんどは少しハードボイルドですな。チャンドラーを思い出した。

ところで、村上春樹の小説は何でこんなにタバコ吸ってばかりいるんだろうな、酒も飲んでばかりいるけど(そして酔っ払いはしない)。なんだがタバコやビールを通して世界や他人と繋がっているような、そんな感じだ。きっとそこらへんのことは誰か考察してくれてる人がいると思うんだけど、分かる人がいたら教えてください。
はいはい、やっと読めました。これで『中国行きのスロウ・ボート』『螢・納屋を焼く・その他の短編』の2冊の短編集を読んだことになるな。村上春樹は短編も面白うございました。

羊男と羊博士の出てくる『シドニーのグリーン・ストリート』、これは早速娘の寝かしつけ話に利用させてもらう。羊男と羊博士のキャラクターは娘に大うけ、当面羊男の話で持ちそう。
この本は読みきるのにホントに時間かかったな。なかなか貴重なデータ満載なんだが、何しろ北朝鮮の状況についていちいち数字で解説してくれるから読むのがしんどかった。

北朝鮮の経済のどうしようもなさが、いままでの経済政策や歴史、現状を分析してあらわにされる。いや、ほんとどうしようもないってことがよく分かった。ところが、いぜれ破綻するのは分かっているとしてもすぐに崩壊するかっていうとそうでもなさそうなのが始末におえない(すぐに崩壊しても始末におえないんだが)。道は(6カ国協議をはじめとする)周辺諸国の努力でなんとか破綻をソフトランディングさせるようにする方向にしかないな。日本も中韓ともうすこし仲良くしておいたほうがいいんじゃないかの。
戦争への憎悪、最愛の母の死、文学への思い。『虚無への供物』の著者・中井英夫によって綴られていた稀有の〈戦中日記〉を初の完全復刻。衝撃の未刊行部分を多数収録。戦後60年特別出版。


素晴らしい。この日記の文章が二十歳そこそこの若者が書いたものであるということにまず打ちのめされる。個人的な日記であるのにこの文章の美しさはなんだ。そして、反戦の思いや軍部に対する憎悪を下敷きにしつつも、あの戦争の本質や戦況にたいする透徹した視点に驚きを禁じえない。

今度の学生徴集に表面上でも万歳を唱えてゐる奴はかうして自分達がこの動乱の中心点にのり出す花々しさに、世界戦争の花形役者となるうれしさに酔つてゐるために他ならぬ。花形どころかみじめな道化役者だとさへ彼らの円いおでこは気がつかないのだ。いやピエロはまだしもかなしみを知つていよう。一塊の泥人形だ。せいぜい、一匹の猿だ。私はそして幾分か聡い猿なのだらう。何れにせよ猿なことは間違ひない。只ならぬ成行にあたりを見廻し何か迫つてくる危険を予感してゐる、哀れな、小さい日本の猿


本書を読むと、戦時中にこういうことを書き連ねていたことに対する中井英夫個人に対する稀有の人との評価が高まるのであろうが(もちろんそれはそのとおりなのであるが)、むしろ重要なのは、中井英夫本人が後に、反戦の気風は意外なほど強かった、と述べていることであろう。じっさいのところ、戦時中の人々の考え方や風俗というのは、われわれが思い描いているのとは随分違ったものであったのかもしれない。そこらへんを知る一助としても重要な文章であると思う。

また、今回新たに付け加えられた母の死に対する慟哭の部分は、その激しさに困惑するほどである。近しいものの死に対し、これほどまでに己のうちをさらけ出している文章をわしは知らない(前回未掲載であった所以である)。母の死を嘆き、自分の誕生日が来たら後を追って死のうと思いつめてから、やはり生きようと思い直す心情の変化も興味深かった(そこは中井英夫らしく明るく前向きなものとは少々違っているが)。

いやあ、ともあれこの本は(悩んだけど)買っておいてほんとに良かった。
『村上春樹全作品1979−1989(3)短編集1』を期限内に読み終えることができなかったので図書館に再度借りにいく。ついでに『羊をめぐる冒険』も借りたから夜の本はしばらく大丈夫(昼間に持ち歩くには本自体が大きすぎるのだ)。昼休み本は、読みかけの『北朝鮮「虚構の経済」』と他にも新書が二冊ほど控えてるのでこれまた当面大丈夫。

昼休みの残り時間を使って、本屋もチェックしておく。『中井英夫戦中日記 彼方より 完全版』を発見し狂おしく悩む、ぐおおおお、買うべきか見送るべきか。そもそもハードカバーはめったなことでは買わないように自主規制しているところだし、当面読む本は充分足りている。しかし、しかしだ、本との出会いは一期一会、実際に一冊しか残ってない。えーい、買ってしまえ。このまえもらった図書カードもちょっと残高あるし。

実は、中井英夫は『虚無への供物』しか読んだことがない(京都の古本屋「アスタルテ書房」で中井英夫の日記を立ち読みで少し読んだことはある)んだが、彼の文章と妖しい世界観はもうほんとに大好き。『虚無への供物』はいままで数十回は再読していると思う。この本は「物語」ではなく、中井英夫が学徒動員されたときの「日記」であるが「日記」とは思えない文章の素晴らしさ、内容もとても20代になったばかりの若者が書いたとは思えない深い洞察に飛んでいる。ちょっと読んだだけで惚れてしまった、買い。

さて、そういうわけでますます読む本は増えた、幸せなことであるな。
わしがこの本買ったのは、批評してる対象に村上龍、村上春樹に加え、我らが舞城王太郎も含まれていたからである(他にもたくさんいるのだが)。読了、うむ面白く読めた、なかなか鋭いと思う、特に村上龍に対する分析が抱腹絶倒
・・・・・・結局、村上龍が「告白」をしようとすると全部「説教」になってしまうのだ。−中略−それがいつの間にか「説教」へと変わっていく電撃的瞬間にはやはり驚き、というか妙な感動を禁じえない。文学者にはあるまじき底の浅さに。そしてそのオヤジ性全開の主張=「説教」の下らなさ、哀しさに。
なるほど、たしかに村上龍は説教臭いよな(笑)。しかし、これをけなしているのではない褒めているのだと主張する著者もたいしたもんだな。

全般に分析自体は面白く鋭いのだが、著者の文章そのものが、ちょっと神経質そうで気になる。ポップでこなれた文体とちょいと難しい漢字熟語の同居はいいのだが、たとえば「畢竟」とか「ペラさ」という単語がやたら繰り返されるのは、読んでいて気持ちがよくない。たしかに「畢竟」を「ひっきょう」とひらがな表記は間抜けだけど、多く使われてるとなんだか違和感ある。「ペラさ」というのは、日本語が他の言語と比較して薄っぺらいということを表しているのだが、その理由は簡単に誰かの研究を引用するのみなのに、ツールとして繰り返し使われるのもなんだか納得がいかない。途中「藩」という言葉にこだわってたり、なんだか変なこだわりがあるのかな。

なんだか、純文学のエンターテイメント化について書かれた本なのに、著者自身の文章について同じことを考えてしまうという変な読み方になってしまった本でした。
『風の歌を聴け』の続編ですな、今回も面白かった。前作よりも文章の修辞が多くなって、より村上春樹っぽくなったというか、気の利いた文章ですね。多くの物書きを目指す素人にいかに彼の文章が影響を与えてるかってのがよく分かった本でした(真似すべきは別のとこだと思うけど)。

もうちょっとここら辺の前期の作品を読むのが早かったら、村上春樹から仕事の仕方を学べたかもしれないな。そう、仕事の前には鉛筆を削らないとな。そして、世の中にはなんだか分からないけれど邪悪なものがあるってことも。

さて、短編集を片付けて『羊をめぐる冒険』にいこう。

風の歌を聴け

2005年6月17日 読書
村上春樹は、デビューしたときから村上春樹であったんだな、大変面白かった。今読んでも十分新しいこの小説は1979年の出版らしい。わしが浪人時代に読んだのは、どうもこれだったみたいだ、主人公が生物学部の学生で、わしも生物学部を受験してたから受かってればこんなことをしてたのかなと思ったのを思い出した(もっとも、その後わしは文転して某地方田舎大学の経済学部にいったのであるが)。

途中、読んでいて僕と鼠の会話がどちらの言葉分からなくなることがあった。わしが流れで読んでて、話す言葉の内容とかで誰の言葉かを判断してるからだろうけれど、二人の話す言葉に違いはあんまりないような気がする。つまり、僕も鼠もおなじく村上春樹自身の投影なんだろうな。

さて、次は『1973年のピンボール』だ。
ううむ、それなりに面白くは読んだ。明治以降の教養主義の変遷について書かれているのであるが、わしも最近は戦後知識人の名前だけはわかるようになってきたので、知ってる名前が出てくると結構楽しく読めたりする。

しかし、どうも著者の立ち位置がいまいち見えないんだよな。いろんなトピックスをいろんな視点から眺めるのだが、著者の思うところはいったいどこなのかいまいち見えない。暗になにかを批判しているような気がするんだが、なんなのかわからないあるよ。

わしは、ニューアカブームのとき浪人-大学生だったから、なんとなくあのときの(今から考えれば)気恥ずかしい空気は思い出せる。著者いわく、それ(ニューアカ)が最後の教養主義で、それ以降、教養主義は崩壊して復権はなっていないそうだ。でもさ、個人レベルでは教養主義の残滓はありそうな気はするけどな。わしの知ってる大学生は、読むべき本を読まないといけないという強迫観念にかられているような気がする。そしてそれは、大学に残って学問の道に進んだ学生時代の後輩ともかぶるんだよな。世間ではすっかりなくなったように思われてるけど、なんやかんやいってしぶとく残っていくのではないかな。

まあ、わしも教養主義の復権を望んでいるものではあるんだが、ニューアカみたいなのはごめんこうむるな。もっとほんわかしたのがいいぞ。
この本を近所の図書館で予約したのはたしか1月だったと思う。それがついこの前、予約入荷の連絡があった。もう、半年も前の予約なんかとっくに無くなってると思って買ってしまったよ。その時点で読んでなかったのがかなり悲しい。まあ、買って損はなかったけどさ(新書だともっと嬉しかったけど)。

著者の山田昌弘の視点はいつもクリアだ。文章も分かりやすいしデータにも説得力がある。最近読んだ本で日本社会の階層化や二極化に触れたものは多いが、やはりいちばんすんなり読めるな。

本書では、日本の社会が職業・家族・教育の分野で「リスク化」され「二極化」しているさまをこれでもかと見せ付けてくれる。そして、20年後今の若者の多くが(言葉として適切かどうかはともかくとして)不良債権化すると警告する。いやあ、よく読むと凄いこといってますね。

残念なのは、現状認識と抽出した問題に対する処方箋の部分があまりに少なすぎることだな。公共的取り組みってだけじゃ弱すぎるんじゃないかな。その部分をもう少し掘り下げて欲しかったです。

靖国問題(再)

2005年6月9日 読書
今日、本屋にいったらこの本があちらこちらの売り場に平積みで置かれていた。話題の本になってるみたいだし、売れ行きもいいみたい、いいことだ、多くの人に読まれるといいなと思う。読みやすいし、解りやすいし、お勧めです。

アマゾンでのこの本のレビューは、想像できると思うが、賛否両論真っ二つである。おもに否のほうの意見は、著者の平和主義に対する批判であり、そのような考え方を持つものの話がきちんと聞けるわけがない、といった論調である。なぜ平和主義が批判を浴びるのかと思うむきもあるだろうが、著者はこの本の第五章でこういうのである
非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を絶つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法第九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある。現実はこの条件からかけ離れているため、いつこの条件が満たされるのかは見通すことが困難である。しかし、この条件からかけ離れた現実の中で国立追悼施設の建設を進めるならば、それは容易に「第二の靖国」になりうる。したがって、国家に戦争責任を取らせ、将来の戦争の廃絶をめざすのならば、まずなすべきことは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。

つまり、戦力の完全放棄である。「第五章 国立追悼施設の問題-問われるべきは何か」における著者の論旨は上記の通りで、著者は日本は軍事力を完全に放棄すべきであると考えていることが判る。これがあまりに空想的、非現実的な考えであるということで、この本全体の論旨もうかつに信用できないといわれるのである。

実際のところ、わしも最初に読んだときにこの部分にはすごい違和感を感じた。わしは高橋哲哉をそれまでなにも読んだことがなかったので、いきなりこんな展開になるとは思ってなく、え、え、そうなっちゃうんですかあ・・・と。

わしなんかが単純に考えると、この部分をもう少し穏やかに書いてれば、もっと隙のないより多くの人に説得力を発揮する本になったのではないかなあと思うんだが、おそらく著者にとってこの部分は、思想の核心の部分であり、簡単には譲歩できないものだったんだろうな。反論を避けるためだけに核心をごまかすということは出来ない相談か・・・そうですね。

ともあれ、第五章の評価は分かれたとしても、一章〜四章はよく出来ているので、それだけでも読む価値は充分あります。この本は、「靖国問題」を純粋に国内の目からみたものであるが、中国の目から見た『中国はなぜ「反日」になったか』と合わせて読むと、首相の靖国参拝の問題がより鮮明に見えてきてよろしいかと思います。
著者は、国民生活白書などを担当した官僚で現在は(財)世界平和研究所に出向中、そこで社会保障分野を担当。世界平和研究所ってなんか胡散臭い名前だなあと思いながらも、グーグル先生に聞いてみると、中曽根時代に設立された政策研究提言機関だそうで、先ごろ憲法改正試案なんかを発表してたのはなんとなく記憶にあるな。

まあ、それと本書とはほとんど何の関係もないんだが、本書は、日本の社会保障制度(公的年金制度、医療・介護保険制度、子育て支援策)について、その現状を分析し、公平と公正の観点から、身の丈にあったこれからの社会保障制度を提言していく。

いやあ、なかなかバランスの取れた視点で書かれており大変勉強になりました。なにより、偏った価値観からの制度作りを出来るだけ廃し、多様な価値観に対応できるように考えられていることに好感が持てる。公平と公正についても、公平=誰もが同じ公的サービスを受けることが出来る、公正=より多く負担したものがより多くサービスを受けられる、という観点から、その両立しがたいバランスを崩すことなく、不公平感を出来るだけ出さないような政策を求めて論を進めていく。

日本の社会保障制度は、年金問題を筆頭に崩壊寸前という印象を多くの人が共有していると思うが、そういう状況の中で現実的なオプションとしてどのような改革を進めていくべきかがよく分かる(それでも、甘めの将来展望ではあるが)。しかし、こういった提言がどれほど現実の改革に反映されていくのかは非常に疑問であるな。消費税はもっと上げていいからなんとかしようよ、とわしと同じように考えてる人は多いと思うんだがな(ちなみに本書では10%台後半を想定)。
本屋で見つけて衝動買い。今年の1月にでた雑誌なのに版を重ねているらしく、本屋で山積みされてた。雑誌で増刷とはさすが井上雅彦、恐るべし。

昨年、スラムダンク一億冊突破記念のイベントに、井上雅彦は廃校となった高校の校舎を借り、その黒板23枚に最終話から10日後の「彼ら」のマンガを描いた。本書はそのイベントの特集である。

いやー、しかし(当たり前だけど)画上手いねえ、黒板にチョークで書いてるのにデッサンも狂わないしタッチもいい、マンガのまま大きな絵になってるよ。しかも、写真で一部だけ掲載されてる黒板見てると全部読みたくなるし・・・。全部読むには、井上雅彦のHPで販売されてる黒板カードを買うしかないのだが・・・誰か買わないかね?そしてわしに貸してくれ、そうしないとついついわしが買ってしまいそうな勢いだ。

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