レヴィナス入門

2005年2月5日 読書
昨年買って読みかけだったので無理やりよみ終えた。

うーーーーん、はっきりいってさっぱり解らん。入門書なのにこれほど解らんってのもなんだな。まあ、わしの頭がかなり足りないってのとレヴィナスがそもそも難しすぎるってのはあるんだろうが、おそらく何度読み返してもこれは解らんなと読んでる途中でそう思った。だいたい、レヴィナスがどんなことを言おうとしたのかさえ解らん入門書があっていいのかと、まったく予備知識なしによんだら、このレヴィナスって爺さんは顔とか皺とか何言うてんねんとしか思わないだろう。読み終えてもレヴィナスの位置づけも功績もさっぱり解らん。まさに解らんだらけの入門書であった。

煙か土か食い物

2005年2月4日 読書
ぐおおおおお・・・・きたきたきたきたああああ!!!

久しぶりにおもしれえ、ずばりわしの中では不動のベスト『虚無への供物』中井英夫とか、笠井潔の「矢吹カケルシリーズ」のカテゴリー(あくまでもわしの中のね)にランクインだ。よくやったマイジョウ!

ここ4,5年はほとんど物語の世界に足を踏み入れなかったので、こんな収穫があったなんてしらんかった・・・みんなが褒めてたのが今わかったよ。遅まきながら、えらいぞ王太郎!!

スピード感あふれるポップな文体とミステリーの枠の中に主人公とその家族の再生の物語が紡ぎだされる。うーん、物語の王道ですな。関係ないが、ポップな文体はなぜか内田樹のブログの文章に似てる(不思議だ)。途中、二郎がディケンズだといって四郎に今読んだ本を暗誦して見せるくだりがある、しかし実際に暗誦して見せるのはチャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』・・・舞城君、きみはわしのつぼを心得ているね、「君は俺を買い上げたんだよ、テリー。」ここで不覚にもうるうるしちゃったよ、共感度2割増しだ。

読んでる最中にむかし夢中になって読んでたいろんな物語を思い出した、ああ久しぶりに堪能。次はなんにいってみるべかな。
ポストコロニアリズムに興味がでたので読んでみた。
本書は、はじめにコロンブスの大陸発見から植民地主義が始まっていく歴史を見て、ファノン、サイード、スピヴァクの三人の理論・行動を紹介し、最後に日本におけるコロニアリズムの状況を俯瞰するという構成になっており、解りやすい入門書という感じですな。なかなか面白かった。

特筆すべきは、「いま、なぜポストコロニアリズムか」と題された序章が素晴らしいこと。著者が「花岡隆起」56年目の「中国人殉教者慰霊式」に参加しているシーンから始まるこの美しい文章は、ポストコロニアリズムという思想が何であるのかをきわめて端的に言いあらわしている。

なかなかに良書でした。
自衛隊はイラクにおいて「人道復興支援活動」を主におこなっているが、軍用物資や兵員の輸送も「安全確保支援活動」としておこなっている。これは通常は兵站支援と呼ばれる軍事的な活動である。我々は、なし崩し的に自衛隊をイラクに派遣したばかりか、すでに軍事作戦にも手を貸しているのだ。

全篇を通じて、筆者の平和への想いと「戦争のできる国」へと変容しつつある日本の現状に対する危機感がひしひしと伝わってくる。いつの間にか自由にものの言えない社会になりつつある日本を何とかしなければという焦りは本当に行間から染み出てくるようである。わしはおおむね筆者の書いていることに賛同する者であるが、このような著作や行動がいまひとつ社会に影響を与えきれていないことに無力感を感じる者でもある。著者のように真正面から反戦を主張をする人たちが必要なのはまったく言うまでもないが、違ったアプローチもあるのではないかと考える今日この頃(で、まったく思いつかないから困ったものなんだが)。
さて、久しぶりの日本人の小説だ。内容は株の世界を舞台としたコンゲーム。センテンスの短い文章、テンポが速い、ああエンターテイメントの文章だよ久しく忘れてた。

舞台は、世の中みんなが躁状態で狂っていたバブルが弾け、今度は鬱状態で狂ったバブル以後の1998年。企業不祥事が頻発し不良債権問題がクローズアップされ、世の中暗い暗い雰囲気だったあのころ、わしも仕事面では暗かったなとついつい思いだし・・・。

ストーリーは大変わかりやすく、結末に向かってどんどん勢いをましていく。途中、株式や経済のレクチャーがはいるので予備知識がないとちゃんと読まないといけなくなるが、わしは何しろ同時代を社会人で過ごしてましたから、中身は懐かしい事件ばかり、どんどん先に進んでいけました。

いや、面白かったです。エンターテイメントとして最高とまではいえないけれど、楽しむには充分。でも、(後何冊か読まないとわからないけど)わしの求めている物語はここにはないかも。よし、次は舞城王太郎にいってみよう(脈絡なし)。

先生はえらい

2005年1月28日 読書
帰ったらわし宛の冊子小包が、きたああああ!!サイン本です。ふむ、かのお方はこのような文字をお書きになるのか。ほお、これがネコマンガであるのか。ひとしきり感慨に浸り、おもむろに読み出す。

中高生を対象とした新しい「ちくまプリマー新書」の一冊、ほかのラインナップもみるに力はいってますね>筑摩さん。中高生向けなので、もともと読みやすい内田教授の文章がさらに読みやすい。さくさくさく、途中、本当に「先生」に話は帰結するのだろうかと心配いたしつつ、内田節を堪能。うむ、これは売れる(きっと)。

内容は、多くの人が題名から想像するであろう「教育論」とは随分違う話が展開する、人間とはどのような存在であるのか、コミュニケーションや記憶について、ラカンやフロイトを引きつつ目から鱗の話が語られていく。そして最後はきちんと先生と弟子の話に収束していくのだ。「ウチダ」話のエッセンスが詰まっているので、中高生といわず大人にも読んでもらいたい本です。

実際のところ、「内田樹の研究室」のブログを読んでいて、著書におおむね目を通してれば、この本にでてくる話はもう何回もきいた話ばかりである。しかし、もう知ってる話なのになぜか読むと目から鱗が落ちるのだ。何度も読んでるわしでさえそうなのだから、この本で初めて「ウチダ」に触れる新規の読者は、さぞかし驚天動地であろうと容易に想像がつきますな、とりあえず皆さん読みましょう(本もらった恩返しにいうわけじゃないけど)。

この本を読んだあと、内田樹の研究室の「首都大学東京の光と影」http://blog.tatsuru.com/archives/000688.phpを読むと首都大学東京のとんでもなさがよりよくわかります。

ps.本をいただいた恩返しにたくさん誉めておきました>先生

フェルマータ

2005年1月26日 読書
ふと、久しぶりにニコルソン・ベイカーを読み直したくなって、唯一もってるフェルマータをぱらぱらと斜め読み。

フェルマータ能力(時間停止能力)をもった男の自慰の話。このすばらしい能力を主人公はひたすら女性の服を脱がし自慰と視姦のためだけに使う。内容はエロというかポルノなんだけど、読み直したくなったのは(むらむらしたからではなく)その文章、とくに修辞がすごいから。

読むたびに思うが、ベイカーの頭の中はどうなっているんだろうな。妄想の度合いも飛びぬけてるし、書き込む細かさはもう偏執狂の域に達してる。時間の止まった(架空の)世界をここまで細かく美しく描き出せる筆力は本当にすごい。間違いなくベイカーは変態(だと思う)。

もし、あなたが小説家を目指しているなら、一度ベイカーを読んでみることをおすすめする。世の中にはこんなとんでもない作家がいるのだ。
出版社 / 著者からの内容紹介
戦後60年、日本国民必携の書
戦後60年間、28代27人の首相はどのように日本経済を成功に導いたか。緻密なデータをもとに検証する歴史的名著。


いや、いい本なんだが上の(アマゾンでの)内容紹介はいくらなんでもいきすぎだろう、発売したてで歴史的名著ってのは・・・。ほかに、帯には「日本国民、必携の書!」とある、角川書店どうしたんだそんなに売りたいのか?

内容自体は、戦後の首相の政策をその内閣ができた経緯と経済政策、外交、トピックスにわけてたどっていくもので、わかりやすくまとまっていて、戦後政治のアウトラインを知るにはもってこいの本であると思う。戦後政治に疎いわしにはとてもためになりました。

特に本書が成功していると思うのは、内容に参考文献からの参照を多く取り込んで、先達の研究の成果をよく利用していること。首相の所信表明演説からその首相の特徴をよくあらわした部分を抜いていること。その内閣ができるにあたっての経緯を詳しく述べていること、であろうか。そのおかげで流れとしての戦後政治が俯瞰しやすくなっていると思う。

本の性質上一つ一つの内閣を深く掘り下げることはできないけれど、最後までバランスの取れた視点で書かれており、特に総論としての「おわりに」の章がなかなかよかったです。でも、歴史的名著はいいすぎ・・・しつこい。
この前、こどもが図書館から借りてきた『ぶらぶらばあさん』があまりに異彩を放つ絵本なので、早速次の巻も借りてきてもらった。

ぶらぶらばあさん名言録
「よいか おまえたち。
うみで いきて、
うみで しね!」


「いいか、ひとはな、だれでも
いちどだけ うんこと いいたくなる ときが くるものじゃ。
でもな、それは すぐに あきる。
そう いう もんじゃ。」


ぶらぶらばあさんはへちまの神様らしい、上半身裸で垂れた乳をぶらぶらさせている。ばあさんを慕うフンころがしのフンたろうを魔法で人間に変え、二人で旅を続ける。いや、かなりシュールです。おそらく、深い教条的な意味はありそうでない話で、「うんこ」と叫ぶかわいい女の子(あだ名はおおごえうんこちゃん!)の話のところなんかは、読み聞かせしてるときに親が「うんこ」という面白さを狙ってるだけなのではと思わせられたりする。

かなりなぶっ飛び度の絵本で大変楽しいです。お宅でもどうですか?
ネットの友人から高橋源一郎と斎藤美奈子の対談が面白いと聞かされ、早速本屋でチェック。こりゃ面白いわと買ってきた。
だいたい題名に「日本一怖い!」なんて使ってたらホラーのブック・オブ・ザ・イヤーかと思うだろと突っ込みつつ、遅まきながら斜め読み。

文芸・評論担当の高橋源一郎と斉藤美奈子はもう文句なしにいいですな。知的に面白い、セレクトしてる本も絶妙、この対談のために買ったようなもんです。
エンターテイメント担当の北上次郎には、どんなに大森望と話があわなくても、わしは絶対的な信頼を置いてるのですべて北上の言うことを信じる。
この前読んだ『なぜフェミニズムは没落したのか』の荷宮和子はコミック担当で南信長と対談してるが、二人とも『のだめカンタービレ』のほめ方が足りないので失格!のだめの素晴らしさがわからんやつの感性なんか信じられるか!!

いや、でもこんな本読んでると小説も読みたいのがどんどん出てくるな。久しぶりに物語の世界も覗いてみたくなったぞ。
何でこの本を読んだのかといわれると返事に窮するんだが、読んだものは仕方ない。しかも、食事中に読んでたりしてかなりやばい人みたいだ。

第一章はひたすら拷問器具と使い方の説明が続く、想像力をめぐらして読むと胸が悪くなるので感情のスイッチはoffにして読む。次の「惨殺魔と化した権力者たち」の章も同様。「拷問・処刑の生贄になった人たち」の章と「人間とは思えない!?戦慄の殺人鬼たち」の章のみドラマがあるのでまあ楽しく読めました。

作者は『本当は怖いグリム童話』を書いた人で、他の著作の題名を見てもアングラな話の好きな人みたいですな。歴史小話の裏版って感じでした。前に読んだ小池寿子の『屍体狩り』のような朽ち果てた屍体の中に美しさを見出すような独自の世界の素晴らしさには及びもつかないが、まあ話のネタに読んでみるのもいいかもね。
この一週間の昼休みは本当に至福のときであった。ガストに入り、日替わりランチ大盛りとドリンクバーを頼む。食事がくるまでは右手で本書を持ち左手で携帯を操作。食事がきてからは、食べながら読む(行儀が悪いが)。そのあとコーヒーを2,3杯飲みながら読んでると一章が終わる。店内はかなりうるさいのだが、2,3Pも読むとまったく気にならなくなる。ときおりふうとため息をつき虚空を見つめる。あー、幸せだ・・・。

まえがきに「本書は、これまでにない種類の本である。その目的は、現代思想の概説ではなく、現代思想をツールとして使いこなす技法を実演(パフォーマンス)することである。」とあるように普通の哲学解説書とは趣を異にしている。扱われる思想家は、ソシュール、バルト、フーコ、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの6人。それぞれに一章が割り当てられ、一章が案内編、解説編、実践編にわかれる。特に実践編ではその思想家の理論をもとに、映画や小説を読み解くという大変にスリリングな試みがなされている。

実のところ、内田樹の他の著作やHPで読んだことのある文章はいくつかあったのであるが、それでも新鮮な気持ちで読め、新たな発見が多くあった。これを読んで6人の思想家の考えを理解したつもりになることは厳に慎むようにしなければならないが、それでも難解なものが理解可能な形で提示されるってのはなんと嬉しいことであろうかと心底そう思う。

本書は、2000年にハードカバーで出版されたものの新書版らしいが、佐伯啓思の最近の著作が引用されてたり、細かいところでブラッシュアップがされているようだ。せっかく新書版も出て世間の目にも多く触れていることでしょうし、ぜひぜひ続編を望みます。
「安全が達成された瞬間から、安全の崩壊は始まる」
けだし名言ですな。本書の内容はこれに尽きる、つまり本の帯を読めばほとんどのことは分かってしまう(いいすぎか)。

著者は、安全学を提唱している方で、ずばり『安全学』という著書もある。内容はいわゆるリスクマネージメントの話ってことになるのかな、交通、医療、原子力の分野での話と安全の設計、安全の戦略についての5章からなる。まあ、納得のいく話です、はい。

口語調で書かれてるので、最初は講演かなにかの話を文章にしたのかなと思った。まあ、慣れれば読みやすいといえば読みやすいんですが、どういう読者層を狙ってるのかな?安全学でいえば基本の部分を判りやすく解説した本ということなんでしょうね。さらさら読んで、はいおっしゃるとおりですね、読了、って感じでした。
なんだか最近読む本読む本面白いな、どうしたんだろ?

本書は東大教授 姜尚中とオーストラリア国立大学教授 テッサ・モーリス−スズキがオーストラリアのリゾート地ハミルトン島で、普段の仕事を忘れ、デモクラシーについて語り合った対談を元に編まれている。

そして本書の目的は、危機に瀕しているといわれて久しいデモクラシーについて、読者に知識と洞察を与えると共に、何らかの行動を起こしてもらうためのメッセージを発信することである。

話は二人の会話を中心に編集者のO氏が道化役を担いながら進行していく。テッサさんのきめ細かな本書の内容への配慮から、現在のデモクラシーの問題点を解きほぐすために簡単に歴史的なところも通っていってくれる(何て親切!)。
さらさらと読み進められ、しかも考えさせられ、知識もつくというお得な本ですな。

最近、民主主義について懐疑的になってきていただけに、彼らの迷いないデモクラシーへの支持にちょっとほっとしたりする。でも、これを読んで何か行動を起こすかと言われれば特に何にもしないんだけどね・・・。
著名な宗教学者中沢新一による歴史学者網野善彦への追悼文。網野は中沢にとって、父親中沢厚の妹である真知子の夫、つまり叔父にあたる。

私は、中沢は『チベットのモーツアルト』あたりで一世を風靡しているときに斜め読みした程度(当時の感想は良くわからないだった)。網野は網野史観という言葉が世間を賑わしてるときに、読んでみないといけないと思いつつ未読。亡くなったときに『日本の歴史』を買わねばと思いつつ、そのまま。ましてや二人が叔父・甥の関係だったなんて初耳ですなという程度の知識でした。

読後の感想は、まず美しい追悼文であるなということ。そして、大変面白いということ。彼らは普通に叔父・甥の関係であっただけでなく、それぞれの思想、思考に大きな影響を及ぼしあっている関係であったことが良くわかる。特に、網野が中沢家(この一族はなんだかすごい)との付き合いのなかで、その歴史観の原型というものを立ち上げていくさまは読んでいて興奮を禁じえない。まさに、本書は中沢にしか書き得ない、そして書かざるを得ないものであったのだなと感じた。

さて、以後は網野本と中沢の『精霊の王』も読まねばなるまいと思ったしだい。本当に読むかどうかはわからないけど・・・。
ネットの友人の北大の学生に勧められた本。いやあ、面白かったです、とてもよくできたアメリカ論、勉強になります。よくまとまっていて、読みやすく分かりやすい、教科書としてももってこい(多分そう使われると思うが)。アメリカについて目から鱗の新理解ができました。

「本書は、アメリカ合衆国の政治と外交が現在直面してるいくつかの重要な問題を、その歴史をさかのぼって理解しようとするものである。」という文章から始まり「ユニテラリズム」「帝国」「戦争」「保守主義」「原理主義」というカテゴリーごとにその歴史から解き明かしていく。そのどれもが納得のいく説明でよく練られている。

アメリカの行動原理について理解を深めたい人にはずばりお勧めですな。
いやあ面白いわ、荷宮和子これからチェックしとこう。帯に上野千鶴子にケンカを売るとあるが、ほんとにケンカ売りまくりですな(笑)

著者はわしよりちょっと上で新人類世代、自らをくびれの世代と呼ぶ。その世代にはわしもはいってるっぽい。本書は30半ばから40前半の女性が読んだら、共感しまくりなこと請け合いだな。その世代のひとには文句なくお勧め。

著者は「フェミニスト」ではなく「フェミニズムのようなものスト」、そしてフェミニズムの旗手たちが陥った過ち、共感を得られなかった理由を鋭く突いていく。いやあ、歯切れがよくて、読みやすくて大変よろしいな。

アグネス論争において、フェミニストはそれが男社会がでっち上げて女同士を戦わせて高みの見物を決めてるものなのに、そこに気付かず林真理子攻撃に終始してしまった。そして、もっとも味方にすべき林真理子の価値を理解していなかった。また、80年代を生きた「フェミニズムのようなもの」の考え方をする女性の境遇を理解していないため共感を得られなかった。うーん、なるほど説得力ありました。

わしはもともと自分の同世代が大嫌いだったが、本書でかなり見直した。そう、やはり人間じぶんの「○○がしたい!」って欲望を肯定して生きていくのがいいねと再確認(言われるまでもなくそうしてるので)。
佐伯啓思を読んでいつも思うのは、勉強になるなぁってことだ、逆に言うといわゆるわくわく感とかどきどき感ってのがないってことなんだが、今回もやっぱりそういう感想になる(笑)。いや、きちんとその思想の成り立ちを歴史的な流れの中で位置づけて説明してくれるし、論理はクリアカットでまったく文句ないんですがね、ちゃんと新書で新刊が出ると買うわけだし。

で、本書はリベラリズム批判ともとれる自由論である。つまり、「自由」とは本来(なにかの価値に基づいた目的を達成するための)「手段」であるはずなのに、「目的」そのものとしてとらえられすぎている。リベラリズムは、「価値」が相対的かつ多様なものであるのでそれが正しいかどうかの客観的基準を設けることは不可能であるとし、何らかの共通した「価値」をつくることは検討から外して、「自由」そのものを達成することばかりを考えようとする。しかし、詳細に検討すると「価値」から離れているわけではなく、裏になんらかの価値観を内包している。そして、その「価値」観を遠ざけていることがリベラリズムから説得力を奪っているとする。

そこで著者は「義」(誤解を多く生みそうな言葉だがあえて使っている、深読みをすれば誤解して同意してくれるひとをわざと狙ってもいる)を価値としてもってくる、そして「義」を達成するための手段として「自由」を語るべきと。まあ、著者の言いたいことはわかる(と思う)、でもなんか違和感ありまくりだな、わしは素直に同意することはできなかった。その「義」を問題なく造り上げていくなにが今の日本にあるのだろう?納得のいく「義」の体系ができて、生き方のロールモデルを小説とかドラマで流布して新しい日本人像でもできてくるならいいけど(いや、よくないか)。
ショックなことに、昨晩のNHKのETV特集を見逃してしまった、のうのうとパチンコ打ってたよ(涙)。見逃したのは「最後のレッスン〜キューブラ・ロス 死のまぎわの真実〜」NHKのHPみたら再放送予定無しだって・・・ふぇーん。しかも今年の8月に亡くなってたんだな、ぜんぜん知らんかったよ(哀悼)。

本書を初めて読んだときの衝撃は今でも覚えている、死について延命治療についてまさに一から考え直させられた。著者は末期患者とのコミュニケーションを通じて、死を迎える人びとの心の動きを丹念に追っていき、死への否認や怒りから受容に至る段階があることに気が付く。死にゆく人びとにどう対応すべきなのか本書の示唆する内容はとても深い、また広く人の死についても問いかけられ考えさせられる。

本書は1969年に書かれた本だが、その後ターミナルケア(終末医療)のバイブルと呼ばれるようになった名著。私自身が受けた影響が大きいというのもあるが、もっと多くの人に読まれるべき本だと思う。
最初にいっておくと、本書は科学読み物として非常に面白い。科学史において、その業績の大きさにもかかわらず忘れ去られた存在であるシェーンハイマーの仕事に光を当て、そのシェーンハイマーの動的平衝論を元に生命の営みを読み解いていく。そして、その視点からBSE問題についても触れていき全頭検査態勢の維持の必要性を説いていく。

著者は分子生物学者であるが、訳書もあり(科学読み物の名手として有名な)ドーキンスの著作も訳している。だからからか、難しい科学の内容を素人にも分かりやすくかつ興味深く書けていて大変に好感が持てる。ただし題名の「もう牛を食べても安心か」はせいぜい副題にする程度のものだろう、BSEとは関係ない部分が多すぎる、著者が決めた題名とは思いたくないが、内容と合っていないと思われる。

実は、私個人は著者とは反対の立場で、BSE全頭検査自体に懐疑的であり、どちらかといえばアメリカ牛の輸入禁止も折り合いが付き次第再会すべきと考えている。それには2002年に池田正行の『食のリスクを問いなおす−BSEパニックの真実』という本を読んだ影響が大きい。そして、それ以降メディアのBSE関連の記事はできるだけ追ってきたつもりであるが、おおむねその(全頭検査は無駄という)意見を裏打ちできる内容のものばかりであった。(余談だが、国のBSE関連の予算は年々増えてきている、BSE渦は収まってきているのになぜ?たんに省庁の既得権益化が進んできて予算を取れるぶんだけとっておこうとしているように思われてならない)。

確かに、著者の言うとおりBSEはまだまだ分かっていない部分の多い病気である。これを研究する上で、全頭検査と牛のトレーサビリティの完全確保があれば非常に役に立つであろう。しかし、疫学的に見て日本でBSEを原因とする人間のヤコブ病での感染者がでるリスクは多く見積もっても一人あるかないかである、そのために今の検査態勢を維持するのは無駄だと私なんぞは考える。著者はこのリスク分析という考え方にも政治的であるという理由で反論しているが、食自体が今の社会では経済的なものである以上、政治的に線をひくのはやむを得ないと考える。

私の(全頭検査必要なしという)考えは本書を読んでも変わらなかったが、私が読んできたものの中では、全頭検査態勢を必要とする意見としてもっとも説得力があるものであるのは間違いない。そして、この本は(BSEとは関係ない)動的平衝論や記憶に関する話しの部分が大変面白い。最後にあらためていうが、題名は変えるべき。(まあ、その題名で私は買ったのではあるんだが)

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