なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書
2007年5月7日 読書
【諏訪 哲二 光文社新書】
気がつけば諏訪哲二の本も結構読んでるな。この人のちょっとやなところは、過去の著書や実績をついつい自慢げに語ってしまうことがあるってとこなんだが、書かれている内容にはほとんど同意する。
わしはいままで読んできた教育関係の本では、諏訪哲二と内田樹のがいちばんしっくりくる。二人の言っていることはほぼ同じであるとわしは勝手に解釈しているが、どういうことをいっているのかは「勉強するにも、させるにも覚悟がいる」と副題のついたエピローグを読めば分かると思うので、そこだけでも立ち読みでいいので(よくないか)読むことをお勧めする。その一部を勝手に抜粋。
本書の内容のほとんどは「なぜ勉強させるのか?」ということよりは、今までの教育改革の流れや、流行の教育方法に対する批判といったものに多くが割かれているのであるが、読んで損はないと思う。
気がつけば諏訪哲二の本も結構読んでるな。この人のちょっとやなところは、過去の著書や実績をついつい自慢げに語ってしまうことがあるってとこなんだが、書かれている内容にはほとんど同意する。
わしはいままで読んできた教育関係の本では、諏訪哲二と内田樹のがいちばんしっくりくる。二人の言っていることはほぼ同じであるとわしは勝手に解釈しているが、どういうことをいっているのかは「勉強するにも、させるにも覚悟がいる」と副題のついたエピローグを読めば分かると思うので、そこだけでも立ち読みでいいので(よくないか)読むことをお勧めする。その一部を勝手に抜粋。
誰もがひとはみんな勉強しなければならないことを知っていますが、それでいて勉強することにはみんな違和感を持っています。勉強することはひとの本能ではないからです。私たちは、覚悟を決めないと勉強に入っていくことはできません。勉強することは単に知識や学力を身につけることではなく、私たちの頭脳や身体を知的に組みかえていくことです。勉強する子供たちは、多かれ少なかれ「自分」に挑戦しているのです。どんな子どもでもそうです。「私」が居て知識を身につけていくのではなく、知識を身につけて「私」自体が変容していくのが勉強なのです。
したがって、勉強するということは、まず私たち人の生物性(自然のまま)を一度否定することと言えましょう。もちろん、ひとは身体(物質)でできていますので、その身体性(自然性)を消し去ることはできません。勉強は、その自然性を抑えて、文化的・知的な頭脳や身体に仕立て上げていくことを意味します。まず先に、「私」(個人)があって、後からその「私」が知識を身につけていくのではありません。近代的な主体である「私」をつくるために、ひとの本能や自然性に逆らって、知的な身体に変えていくことなのです。
本書の内容のほとんどは「なぜ勉強させるのか?」ということよりは、今までの教育改革の流れや、流行の教育方法に対する批判といったものに多くが割かれているのであるが、読んで損はないと思う。
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