不思議な解説である。藤井誠二氏は少年犯罪関連の著作の多いジャーナリストであるが、ここまで肝心の解説の対象となる著者(芹沢一也)や著作(ホラーハウス社会)に触れずに自分の持論を述べてしまうってのも珍しいな。著者はともかく編集者がよくオッケーしたよなと思う。

まあそれは置くとして、その解説の内容が、わしの問題意識と非常にリンクしつつわし自身を告発しているように思えて考えるところが多かった。

彼の主張のあらましはこうである。
少年犯罪に対し、少年を理解しようという立場から異常者として拒絶するという立場に社会が転換を果たした背後には、それまで見捨てられ続けてきた犯罪被害者の実態に光が当てられだしたということがある。ここで、少年犯罪にもはや(社会の歪みによって不幸な境遇におかれた少年が犯罪に走ってしまい、立ち直るという)物語を求められなくなった社会は、こんどは犯罪被害者にたいし物語化を進めているように思われる。つまり、理不尽な暴力によって人生を奪われ、地獄に突き落とされた人々に同情を寄せることによって、カタルシスを得る社会の出現である。

それにとどまらず今度は、犯罪被害者を「赦す被害者」「赦さない被害者」に選別してしまう物語が出来つつある。つまり、犯罪被害に遭い、家族を殺され、人生を狂わされる。しかし、いつかは加害者と交わり、「赦す」という「赦す被害者」のストーリーである。これは「赦さない被害者」をあたかも悪役のように仕立て上げるもので、犯罪被害者救済の法整備がまだ不完全な日本で、犯罪者を憎み続ける被害者が多いということ、また加害者の社会復帰に恐怖を覚えるという遺族の存在を忘れさせてしまうという危険な状況を招きかねない。被害者遺族にとっての最終的な救済や癒しとは、加害者との交流の中で「赦す」という状態に達することであるとする一部の人権派の人々は、問題の一部だけを見て全体が見られていない。

正直に言って、わしはここで非難されている「犯罪被害者の癒しは加害者との交流の中で生まれる」と考える者である。それは、犯罪被害者について今まで考えてきた結果なのであるが、もちろん赦さなくてはいけないとかそういうものではない。被害者慰留のためには、何が起こったのかを知るためにできる限りの情報が与えられたり、興味本位で見られなかったり、生活上の援助が得られたりすることが必要であると思うが、それとともに加害者自身の口から事件について聞けたり、被害者の自分達が日々どういう思いで過ごしているかを加害者自身に話せたり、そして、できうれば加害者の悔悛の情を示してもらう、そういうこともまた必要であると思うのだ。しかし、まず、加害者と交流を持つことは今までは叶わないことだったということを考えなければならない。加害者自身の口から事件について聞きたい、そういう思いを持つ被害者の努力で、交流が少しずつ実現できるようになりそして「赦す被害者」という存在が現われだしたのである。

藤井氏は「赦し」の圧力が被害者にかかるようになったというが、わしにはまだ「赦してはいけない」圧力のほうが被害者にかかっているように思える。被害者が「どうしたら加害者を赦しますか?」とインタビューで聞かれるのは、「赦せ」という圧力ではなく、「死んだものは帰ってこない、どんなことがあっても赦せません」という答えを期待しているからであろう。たしかに藤井氏の言うような圧力があるのであれば、できる限りそれを感じないように配慮する必要はあるだろう、しかし「加害者は絶対に赦せません、何とか極刑にするように努力します」という検察側の人間だっている、そちらにも目を向けないと被害者の心の安寧は図れないのではないだろうか。

そもそも、メディアが欲しているのは感情のベクトルの大きさであって、その方向ではないと思う。被害者が赦そうが赦さなかろうが、カタルシスを得られる物語にできればそれでいいのだ。根本的な問題はその物語を欲している社会のほうにこそあるのではないか、藤井氏のいう「赦す被害者」の物語以前に、カタルシスを得るための物語化がなされるそういった状況を打破する試みこそが必要なのではないかと思う。

コメント

nophoto
安原宏美
2006年3月3日11:31

「ホラーハウス社会」読んでいただいて、ありがとうございました。藤井さんの自説展開の解説を「よくオッケーした」編集者本人です(笑)悩める本かと思います、はい。まさにお話されている話題を出しておりますので、勝手ながらTBさせていただきましたので、私のブログ、そこからリンクされてる芹沢さんのブログ読んでいただけると幸いです。藤井さんご本人もこちらのブログの内容を転送したんですが、あまりあのページ数のない論考をしっかり読んでいただいてらっしゃることにとても喜んでいらっしゃいました。本文のほうのレビュー含めて重ねて御礼申し上げます。