戦争への憎悪、最愛の母の死、文学への思い。『虚無への供物』の著者・中井英夫によって綴られていた稀有の〈戦中日記〉を初の完全復刻。衝撃の未刊行部分を多数収録。戦後60年特別出版。


素晴らしい。この日記の文章が二十歳そこそこの若者が書いたものであるということにまず打ちのめされる。個人的な日記であるのにこの文章の美しさはなんだ。そして、反戦の思いや軍部に対する憎悪を下敷きにしつつも、あの戦争の本質や戦況にたいする透徹した視点に驚きを禁じえない。

今度の学生徴集に表面上でも万歳を唱えてゐる奴はかうして自分達がこの動乱の中心点にのり出す花々しさに、世界戦争の花形役者となるうれしさに酔つてゐるために他ならぬ。花形どころかみじめな道化役者だとさへ彼らの円いおでこは気がつかないのだ。いやピエロはまだしもかなしみを知つていよう。一塊の泥人形だ。せいぜい、一匹の猿だ。私はそして幾分か聡い猿なのだらう。何れにせよ猿なことは間違ひない。只ならぬ成行にあたりを見廻し何か迫つてくる危険を予感してゐる、哀れな、小さい日本の猿


本書を読むと、戦時中にこういうことを書き連ねていたことに対する中井英夫個人に対する稀有の人との評価が高まるのであろうが(もちろんそれはそのとおりなのであるが)、むしろ重要なのは、中井英夫本人が後に、反戦の気風は意外なほど強かった、と述べていることであろう。じっさいのところ、戦時中の人々の考え方や風俗というのは、われわれが思い描いているのとは随分違ったものであったのかもしれない。そこらへんを知る一助としても重要な文章であると思う。

また、今回新たに付け加えられた母の死に対する慟哭の部分は、その激しさに困惑するほどである。近しいものの死に対し、これほどまでに己のうちをさらけ出している文章をわしは知らない(前回未掲載であった所以である)。母の死を嘆き、自分の誕生日が来たら後を追って死のうと思いつめてから、やはり生きようと思い直す心情の変化も興味深かった(そこは中井英夫らしく明るく前向きなものとは少々違っているが)。

いやあ、ともあれこの本は(悩んだけど)買っておいてほんとに良かった。

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