わしがこの本買ったのは、批評してる対象に村上龍、村上春樹に加え、我らが舞城王太郎も含まれていたからである(他にもたくさんいるのだが)。読了、うむ面白く読めた、なかなか鋭いと思う、特に村上龍に対する分析が抱腹絶倒
全般に分析自体は面白く鋭いのだが、著者の文章そのものが、ちょっと神経質そうで気になる。ポップでこなれた文体とちょいと難しい漢字熟語の同居はいいのだが、たとえば「畢竟」とか「ペラさ」という単語がやたら繰り返されるのは、読んでいて気持ちがよくない。たしかに「畢竟」を「ひっきょう」とひらがな表記は間抜けだけど、多く使われてるとなんだか違和感ある。「ペラさ」というのは、日本語が他の言語と比較して薄っぺらいということを表しているのだが、その理由は簡単に誰かの研究を引用するのみなのに、ツールとして繰り返し使われるのもなんだか納得がいかない。途中「藩」という言葉にこだわってたり、なんだか変なこだわりがあるのかな。
なんだか、純文学のエンターテイメント化について書かれた本なのに、著者自身の文章について同じことを考えてしまうという変な読み方になってしまった本でした。
・・・・・・結局、村上龍が「告白」をしようとすると全部「説教」になってしまうのだ。−中略−それがいつの間にか「説教」へと変わっていく電撃的瞬間にはやはり驚き、というか妙な感動を禁じえない。文学者にはあるまじき底の浅さに。そしてそのオヤジ性全開の主張=「説教」の下らなさ、哀しさに。なるほど、たしかに村上龍は説教臭いよな(笑)。しかし、これをけなしているのではない褒めているのだと主張する著者もたいしたもんだな。
全般に分析自体は面白く鋭いのだが、著者の文章そのものが、ちょっと神経質そうで気になる。ポップでこなれた文体とちょいと難しい漢字熟語の同居はいいのだが、たとえば「畢竟」とか「ペラさ」という単語がやたら繰り返されるのは、読んでいて気持ちがよくない。たしかに「畢竟」を「ひっきょう」とひらがな表記は間抜けだけど、多く使われてるとなんだか違和感ある。「ペラさ」というのは、日本語が他の言語と比較して薄っぺらいということを表しているのだが、その理由は簡単に誰かの研究を引用するのみなのに、ツールとして繰り返し使われるのもなんだか納得がいかない。途中「藩」という言葉にこだわってたり、なんだか変なこだわりがあるのかな。
なんだか、純文学のエンターテイメント化について書かれた本なのに、著者自身の文章について同じことを考えてしまうという変な読み方になってしまった本でした。
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