今日、本屋にいったらこの本があちらこちらの売り場に平積みで置かれていた。話題の本になってるみたいだし、売れ行きもいいみたい、いいことだ、多くの人に読まれるといいなと思う。読みやすいし、解りやすいし、お勧めです。
アマゾンでのこの本のレビューは、想像できると思うが、賛否両論真っ二つである。おもに否のほうの意見は、著者の平和主義に対する批判であり、そのような考え方を持つものの話がきちんと聞けるわけがない、といった論調である。なぜ平和主義が批判を浴びるのかと思うむきもあるだろうが、著者はこの本の第五章でこういうのである
つまり、戦力の完全放棄である。「第五章 国立追悼施設の問題-問われるべきは何か」における著者の論旨は上記の通りで、著者は日本は軍事力を完全に放棄すべきであると考えていることが判る。これがあまりに空想的、非現実的な考えであるということで、この本全体の論旨もうかつに信用できないといわれるのである。
実際のところ、わしも最初に読んだときにこの部分にはすごい違和感を感じた。わしは高橋哲哉をそれまでなにも読んだことがなかったので、いきなりこんな展開になるとは思ってなく、え、え、そうなっちゃうんですかあ・・・と。
わしなんかが単純に考えると、この部分をもう少し穏やかに書いてれば、もっと隙のないより多くの人に説得力を発揮する本になったのではないかなあと思うんだが、おそらく著者にとってこの部分は、思想の核心の部分であり、簡単には譲歩できないものだったんだろうな。反論を避けるためだけに核心をごまかすということは出来ない相談か・・・そうですね。
ともあれ、第五章の評価は分かれたとしても、一章〜四章はよく出来ているので、それだけでも読む価値は充分あります。この本は、「靖国問題」を純粋に国内の目からみたものであるが、中国の目から見た『中国はなぜ「反日」になったか』と合わせて読むと、首相の靖国参拝の問題がより鮮明に見えてきてよろしいかと思います。
アマゾンでのこの本のレビューは、想像できると思うが、賛否両論真っ二つである。おもに否のほうの意見は、著者の平和主義に対する批判であり、そのような考え方を持つものの話がきちんと聞けるわけがない、といった論調である。なぜ平和主義が批判を浴びるのかと思うむきもあるだろうが、著者はこの本の第五章でこういうのである
非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を絶つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法第九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある。現実はこの条件からかけ離れているため、いつこの条件が満たされるのかは見通すことが困難である。しかし、この条件からかけ離れた現実の中で国立追悼施設の建設を進めるならば、それは容易に「第二の靖国」になりうる。したがって、国家に戦争責任を取らせ、将来の戦争の廃絶をめざすのならば、まずなすべきことは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。
つまり、戦力の完全放棄である。「第五章 国立追悼施設の問題-問われるべきは何か」における著者の論旨は上記の通りで、著者は日本は軍事力を完全に放棄すべきであると考えていることが判る。これがあまりに空想的、非現実的な考えであるということで、この本全体の論旨もうかつに信用できないといわれるのである。
実際のところ、わしも最初に読んだときにこの部分にはすごい違和感を感じた。わしは高橋哲哉をそれまでなにも読んだことがなかったので、いきなりこんな展開になるとは思ってなく、え、え、そうなっちゃうんですかあ・・・と。
わしなんかが単純に考えると、この部分をもう少し穏やかに書いてれば、もっと隙のないより多くの人に説得力を発揮する本になったのではないかなあと思うんだが、おそらく著者にとってこの部分は、思想の核心の部分であり、簡単には譲歩できないものだったんだろうな。反論を避けるためだけに核心をごまかすということは出来ない相談か・・・そうですね。
ともあれ、第五章の評価は分かれたとしても、一章〜四章はよく出来ているので、それだけでも読む価値は充分あります。この本は、「靖国問題」を純粋に国内の目からみたものであるが、中国の目から見た『中国はなぜ「反日」になったか』と合わせて読むと、首相の靖国参拝の問題がより鮮明に見えてきてよろしいかと思います。
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